モラトリアムの街、巣立ちの街

「いつか、よそでようさん稼いで、京都で使こうてくれたらええ」

 京都で「カネのない若者」をやっていると、時折、大人たちの親切に出会う。一杯を奢ってくれたり、パンをおまけしてくれたり、まあ、そんなところなのだが、その際にこんな言葉をかけられることがある。

 京都という街は観光都市であり、多くの寺社を擁する宗教都市である。しかし、川崎市と同程度の150万人という人口規模でありながら約40もの大学・短大が集積する「大学のまち」としての顔を持つ。人口に占める大学および短大の学生の比率は日本の都市でもっとも高く10%程度にものぼる。これは第2位である東京23区のほぼ倍の割合である。この国にこれほど学生で溢れかえっている街は他にない。まさに石を投げれば、というやつである。

 つまり京都は先人たちの歴史が重厚に積み重ねられた悠久の古都である一方で、まだ何者でもない若者たちが風に吹かれるように集まり、遊ぶように学び、また、学ぶように遊ぶ、巨大な学生街でもあるのだ。

 彼らはこの箱庭のような「ややこしい」街で、たまに叱られたり、たまに小さな奇跡を起こしたりしながら、数年間を過ごす。そして何度目かの春がやって来ると、たんぽぽの綿毛のようにまた風に吹かれてそれぞれ散り散りに飛び立っていく。

 この街の大人たちはそうやって、めぐる季節とともにやって来ては去ってゆく若者たちを見守り、そして見送りながら暮らしてきた。

 たとえば政治の中枢を追われた菅原道真が大宰府に左遷される際に「東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花」という例の歌を詠んだ時代の京都などは、まさに生き馬の目を抜く競争の場であったのだろう。そして京都を離れることは栄光からのドロップアウトを意味した。

 しかし、とくに近代以降の京都は「学都」として若者の成長を見守る街となる。若者たちが京都を離れることは、ドロップアウトではなく巣立ちとしての意味を持つようになったのである。

「僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒ぎ、風は花々揺つてゐた。」

 じつは大正期には、詩人・中原中也も青春のある時期を京都の学生として過ごしている。早すぎる挫折から逃れるように10代の少年がたどり着いた京都であったが、一人の縁者もないその街は穏やかな距離で彼を取り囲み、彼にはじめて自由の実感を与えた。

 この「ゆきてかえらぬ —京都にて」と題された詩では、中也にしてはめずらしいほどの屈託のなさで、彼の京都での日々がのどかで豊かな時間であったことが回顧される。

「さりとて退屈してもゐず、空気の中には蜜があり」

「目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴つてゐた」

 そして若き中也は京都で見つけた新しい夢を追いかけるために、(「都落ち」ではなく)颯爽と「上京」するのである。いうなれば、巣立ちとしての離京である。