ノスタルジアの器としての京都

 退屈をかくも素直に愛しゐし日々は還らず さよなら京都  
                        栗木京子

 こちらは1970年代に京都で学生時代を過ごした歌人・栗木京子の一首である。中也と同じく京都を離れる若者の心境を表現した巣立ちの歌であるが、中也が京都での日々を綴った詩にもある「退屈」の2文字が詠み込まれていることも象徴的といえるかもしれない。

 21世紀に入った頃から、京都の学生というモチーフが京都モラトリアム幻想とでもいうべき特別な意味を帯び始めたことはこの連載でも触れたことがあるが(第6回参照)、SNSにおける短歌ブームと相まって、京都で送る青春時代をめぐる心情を活写するこの短歌も近年あらためて若者たちの共感と憧れを集めているようだ。

 東京の大学に進学した人々の多くは、就職してもなお東京にとどまることになる。そして街の変化とともに自らも歳を重ねていく。

 一方で、京都の大学に進学した若者たちは幾度かの季節をともにしたあと、その多くがこの街を離れてゆくことになる。そのため彼らの中にはいつまでも、まだ柔らかく未熟な存在だった自分を遊ばせてくれた京都という街が、その日々の空気のまま保存されることになる。

 このように考えると京都という都市は現代の日本社会におけるノスタルジアの器として実によくできているように思う。

 近代の日本社会における人々と故郷の関係性をひとことで表す言葉として、室生犀星の「故郷は遠くにありて思ふもの」という詩句はもはや知らぬ人のいない慣用句となったが、懐かしく思い出される無垢の故郷を自分の中に持つためには、なによりも自分のある時代を優しく包み込んでくれたその街を離れることが必要だということなのだろう。あなたが失くした街だけが、あなたの故郷となるのである。

 いずれにせよ、生まれ育ったわけではない土地に自分の居場所を感じた日々の記憶はとても貴重なものである。とくに競争の日々である「今ここ」に居続けることに疲れたとき、人はその手触りを渇望する。それがノスタルジアであり、だからこそ京都で人生のある時期を過ごした人の多くが魂の一部をこの街に置いたまま、「よそ」へ旅立っていくのだろうと思う。

 そういえば京都を訪れる旅人は、この街と自分の縁をつなぎとめるように通いつめている人が多い。息がつまるようなそれぞれの日々を送るなかで、まるで息継ぎをするように季節ごとに京都を訪れる。そう考えるならば、京都という街の現代的な意味を考えるうえでは、「さよなら京都」のその先に見える景色こそが醍醐味かもしれない。

 いま、京都で暮らす日々にいったんの区切りをつけてここを離れる僕にも、そうすることでやっと見えてくる「京都らしさ」の景色があるのだろう。なによりもまずは僕自身が「この街」ではなく「あの街」として、この懐かしくも新しい街を語り始めることに慣れなくてはいけないと思っている次第である。