日本を代表する色絵陶磁器・九谷焼。「九谷五彩」と呼ばれる赤、黄、緑、紫、紺青の五色の絵の具による色絵装飾の美しさは、見る者、使う者を魅了します。加賀市は九谷焼発祥の地で、山代では近年、江戸時代の窯が発見され、「九谷焼窯跡展示館」として公開されています。九谷焼窯跡展示館の嶋田正則副館長に九谷焼のお話を聞きし、伝統的な九谷焼の絵付けをご指導いただきました。

文=山口 謠司 取材協力=春燈社(小西眞由美) 写真=山代温泉観光協会

発掘された吉田屋窯跡

わずか50年で消えた古九谷を再現

 九谷焼の始まりは江戸時代前期でした。大聖寺藩の領内だった加賀国江沼郡九谷村(現在の石川県加賀市山中温泉九谷)で原料となる陶石が発見され、藩により窯が築かれました。起業したのは初代藩主・前田利治で、陶石を発見した鋳金師の藩士・後藤才次郎が中心となって操業します。

 しかし、九谷焼がつくられた期間は明暦元年(1655)頃から宝永7年(1710)頃まででした。わずか50年余りで突然消えた理由は今もわかっていません。この期間に焼成された焼物が、現在「古九谷」と呼ばれるものです。

 それから100年ほどして、瀬戸での磁器生産の成功に触発され、九谷焼を復活させようとする動きが出てきました。大聖寺藩領内の豪商・豊田家(屋号は吉田屋)の四代伝右衛門が古九谷の復興を志し、文政6年(1823)に九谷村の九谷古窯跡の隣に窯をつくります。翌年に焚いた初窯は、古九谷が廃窯されてから120年もの歳月が流れていました。

 その後、交通の利便性の悪さや積雪の多さなどから文政9年(1826)に、山代に窯を移します。吉田屋窯は再興九谷と呼ばれ、山代で焼かれた九谷焼もこの流れを汲むものです。

 

発掘された吉田屋窯の跡

九谷焼窯跡展示館

 吉田屋窯は九谷村から山代に移って以降、同じ場所で造り替えや補修を繰り返しながら昭和15年(1940)まで操業していました。その登り窯の遺跡が、平成の初めに発見されたのです。発掘と調査に10年以上をかけ、2002年に吉田屋窯の跡は「九谷焼窯跡展示館」として、発掘された状態のままで一般公開されました。2005年には古九谷が焼かれた九谷磁気窯跡(山中温泉より大聖寺川に沿って約14kmさかのぼった山麓)とともに国指定史跡となっています。

展示館では九谷焼の歴史や窯の仕組み、作品を見ることができる

 吉田窯の遺跡を保護するための覆屋は、東京大学名誉教授・内藤廣氏による設計で、遺跡全体を覆うトラスシェル構造によって最新の技術を取り入れて建設されました。九谷焼に興味がある人だけでなく、建築に興味のある人にもぜひ見ていただきたい遺跡です。

 九谷焼はまず素焼きして、そのあと釉薬を塗って本焼きし、釉薬の上に顔料で文様を描いて、再度焼きます。つまり、800℃くらいで軽く素焼きする窯、1300℃くらいで本焼きする窯、文様を描いたものを900℃くらいで焼く小さな窯(錦窯・上絵窯とも)と、構造も焼く温度も違う3種類の窯を使い分けながら焼くのです。

錦窯の跡

 この遺跡は本焼きのための窯で、隣には明治30年代以降に造られた錦窯の跡があります。また、ここでは九谷焼としては現存最古の登り窯(加賀市指定文化財)も見ることができます。登り窯としては小規模ですが、それでも1回の窯詰で約1000個入るそうです。赤松の薪を使い、約1300℃で約30時間かけて焼き上げました。遺跡の登り窯も基本的には同じ構造だったそうです。