藤原定家とも親交があった

 仲章は将軍御所の近くに屋敷を与えられ、しばしば鎌倉と京を行き来した。

 その昇進は早く、弾正大弼、大学頭と昇った。建保4年(1216)年には、政所別当の一人に選ばれている。

 さらに文章博士となり、建保6年(1218)には実朝の推挙を受けて順徳天皇の侍読となり、昇殿を許された。『吾妻鏡』はこれを「希代朝恩(世にも希な朝恩)」と記している。

 仲章は実朝の重要な側近だった。

 関幸彦氏は、仲章を「実朝のブレーンとして位置した」とし(『承久の乱と後鳥羽院』)、『鎌倉殿の13人』の軍事考証を務める西股総生氏は、仲章の立場を「実朝のもっとも信頼する首席秘書官のよう」と称している(『鎌倉草創 東国武士たちの革命戦争』)。

 仲章は、歌人で、日記『明月記』でも知られる藤原定家とも親交があった。

 藤原定家は、すぐれた文章を書くわけではないため、才名の誉れはないが、多くの書籍を集め、百家九流(多方面の学問)に精通していたと評したという。

北条義時の身代わりとなった?

 実朝のもと昇進してきた仲章は、その死を実朝とともに迎えることになる。

 その事件は、実朝の晴れの舞台で勃発した。

 建保7年(1219 4月に承久に改元)正月27日、前年に右大臣に昇進した実朝は、叙位・任官を感謝し、拝礼する儀式である「拝賀」のため、多くの御家人を従えて、鶴岡八幡宮に参詣した。

『吾妻鏡』同日条によれば、北条義時は儀式において、実朝の御剣役(刀を捧げ持つ役目)を務めるはずであった。

 ところが、鶴岡八幡宮の楼門に入ったとき、急に心身の不調を訴え、御剣役を仲章に譲って、退出している。義時は神宮寺で正気に戻ると、小町の自邸へ戻ったという。

 夜になり、拝礼を終え退出する実朝に、悲劇が起こった。二代将軍・源頼家の遺児である公暁が石段の際で隙を伺い、剣をとって実朝を殺害したのだ。

 御剣役が北条義時だと知っていた公暁は、仲章の首を切ったという(『吾妻鏡』同年2月8日条)。

 公暁は、幼名を善哉という。ドラマでは長尾翼氏が演じ、比企氏の滅亡後に、実体とも怨霊ともつかない草笛光子演じる比企尼から、「北条を許してはなりませぬ」と、繰り返し伝えられている。

 また、『愚管抄』によれば、公暁の一味は、北条義時が仲章と御剣役と代ったのを知らず、義時と勘違いして仲章を切り伏せ、殺害したという。

 以上のことから、仲章は北条義時の身代わりに殺害されたように思われるが、西股総生氏は、仲章も実朝とともに暗殺の対象だった可能性を指摘している(『鎌倉草創 東国武士たちの革命戦争』)。

 仲章はなぜ、鶴岡八幡宮で、命を落とさねばならなかったのだろうか。