「新しい京都の守り方」を探し始めた人々

 しかし、この炎上騒動をきっかけに京都市の景観行政は大きく見直されることになる。1966年には「古都保存法」、1972年には「市街地景観条例」が制定されるなど、これ以降、京都市においては全国的に見ても先進的な景観行政が展開されていくことになる。

 京都タワー炎上とその後に展開される京都市の景観行政について、社会学者・野田浩資はこのように述べている。

「外からの<観光のまなざし>に迎合するために建設されたのが京都タワーであり、京都タワーは、その後の京都の景観の無秩序化を促進したという意味では観光公害の一種であったといえよう。そして、結果として、厳しい景観規制行政の展開を促した」(野田,2005,118頁)

「東寺の塔より高い建物を建てることはまかりならぬ」 という、これまで京都の街並みを守ってきた千年の不文律が観光という新しい時代の波によって破られた。しかし、それがこの時代に京都はいかにあるべきなのかを人々が真剣に考える契機となったのである。折しも高度経済成長の真っ只中。目まぐるしく変わっていく時代の中で、京都の人々が探し始めたのは新しい京都の守り方であった。

 そして、炎上のなかでの京都タワー爆誕から50余年。今回、京都を襲ったのはインバウンド・ブームとそれがもたらしたオーバーツーリズム。そしてその後のコロナ禍であった。わずか数年のあいだにこれまで誰も経験したことのないような観光の熱狂と凍結に振り回された経験を通して、現在、この街は観光との新たな付き合い方を模索している。

 

古都の日常に溶かし込まれる新たな塔

 僕がはじめて「京都タワーが目に入らない京都の眺め」を見た2022年3月。いまだインバウンド回復の見通しはつかないままであったが、春めいてきた陽気に誘われて京都をそぞろ歩く観光客の姿は戻りつつあった。宇宙船のような展望室でも、無料の望遠鏡にしがみついた女の子が「あ、ハルカスや!そしたら、うちはあの辺?」と母親に尋ねていた。天気の良い日には大阪のあべのハルカスや大阪城まで見えるのだ。

 そういえば、京都タワーどころか僕は自分の出身地である大阪の通天閣にも登ったことがないことにようやく気がついた。塔はその街のシンボルとはいえ、地元の人間にとっては、毎日、見上げる日常の風景である。わざわざ非日常的な体験を求めて登るものでもないのかもしれない。はるか遠くに霞む、べつに懐かしくもないわが故郷を眺めながら僕はこの街で聞いたお灯明の話を思い出していた。

「京都タワーはね、お寺さんのお灯明なんよ」

 駅前で京都の塔を見上げる大阪人の僕が、「京都の子」にそう教わったのはいつのことだったろうか。

 京都タワーのデザインについて、京都の巷ではこれはお灯明をイメージしたものであるとまことしやかに語られる。しかし、実際にはそのデザインのコンセプトは京都の街なみを特徴づける町家の瓦屋根が続く景観を海に見立てた灯台であるという。

 灯台から、お灯明へ。勘違いといえばそうなのかもしれないが、とつぜん出現した「灯台」という巨大な異物を、京都の人々は彼らの日常世界に溶かし込むために「お灯明」と読み替えたのかもしれない。建築史家の橋爪紳也は都市の塔がもつメディアとしての機能を論じたが、京都タワーの場合はまさに古都の磁場としかいえないような力によって、設計者の思惑とは異なるメッセージを人々に発するメディアとなったのである。そう考えると、どこか痛快な気がしなくもない。

 千年を超える東寺の塔にくらべるとまだまだ新参者であるが、「京都らしくない」という大炎上のなかで誕生し、いつまでもどこか浮いた存在でありながら、かといって愛されないわけでもない。そんな絶妙な存在感で時を刻む新たな京都の塔の歴史も、半世紀を過ぎた。これからも僕たちが思う以上に長い時間をかけて、古都の景色に溶かし込まれていくのかもしれない。

 

<参考文献>
倉片俊輔2021『京都近現代建築ものがたり』平凡社
野口浩資2005「京都イメージの固定化・制度化のプロセス」井口和起ほか編『京都観光学のススメ』人文書院
橋爪紳也2012『ニッポンの塔 タワーの都市建築史』河出書房新社