文=鈴木文彦
日本ワインの故郷、山梨
海外の歌手の歌に、心揺さぶられた経験、ありませんか? ワインというのは、そんな芸術作品と似ています。地球のどこかにあるワイナリーのワインのファンが、そこから何百kmもはなれた場所にいる、そんなことがおきる飲み物です。
それゆえ、最終的には造り手にまで、ミクロ化するのがワインの世界。日本ワインや山梨県、また、マスカット・ベーリーAや甲州といった品種の名前が、世界的に認められたものとなっている、といっても、まだまだそれは、ワインの楽しさの入り口、ではあります。
そうはいっても、日本の県名や品種が、世界的に保護されたものとなり、ワインとともに国外へと広がるのは、将来への第一歩。期待が高まる傾向です。
前回、山梨県が、原産地呼称で先頭に立っていると言いましたが、そこには、色々と理由があるとおもいます。日本ワインの生産量のおよそ1/3を占める、日本に300以上あるワイナリーのうち、80ほどが集中する、という規模の大きさがまずひとつ。
そして、この地が、前回紹介した、甲州の故郷のみならず、日本ワイン発祥の地である、という歴史的な価値も理由のひとつだとおもいます。
これから数回に渡って、日本ワインの歴史を、筆者なりにわかりやすくお伝えしようとおもっているのですが、やはり最初に話題にするべきは、山梨でしょう。そして、宮崎光太郎という人物を、まずは紹介させていただきたくおもいます。
日本ワインの始まり
1872年(明治5年)、山梨県は甲府の山田宥教と詫間憲久という人物が、書物や外国人から教わった知識によりワイン醸造を試みた、というのが、日本ワインの歴史では、日本のワイン造りの起源だと、いわれています。
明治政府の奨励もあり、その3年後、1877年には、またも甲府の、土屋龍憲と高野正誠という二人が、フランスにワイン造りを学ぶために留学しました。
この二人と、宮崎光太郎という人物が立ち上げた「大日本山梨葡萄酒会社」が日本で初めてのワイン会社だとされています。この会社、現在のメルシャンのもとになった会社です。
宮崎光太郎の名前は、いまも宮光園(みやこうえん)という、ワインの資料館の名前で、甲州市勝沼町下岩崎に残っていて、土屋龍憲、高野正誠が帰国した1879年にワイン造りを始めたのが、現在の宮光園こと、宮崎光太郎の自宅であり醸造所です。
とはいえ、この時代、日本でワイン造りに挑んだ人は、ことごとく失敗しています。技術力の低さ、防腐剤の不備、日本人のワインへの馴染みのなさ、不況の影響など、様々な理由で日本のワイン造りは軌道に乗らず、「大日本山梨葡萄酒会社」も1886年に解散してしまいました。
それでも、宮崎光太郎と土屋龍憲、そして龍憲の弟・保幸は、醸造器具を譲り受け、ワイン造りを継続。「甲斐産葡萄酒醸造所」と名付けたワイナリーをつくり、1888年、東京 日本橋は人形町に「甲斐産商店」という、ワインショップもオープンしました。そして、自らのワインに「甲斐産葡萄酒」と、ラベルに記載して販売しています。
しかしはやくも、1890年、土屋と宮崎は、共同経営を解散。土屋が醸造施設を引き継いで、1891年に「マルキ葡萄酒」を設立しました。マルキ葡萄酒は、現在の「まるき葡萄酒」で、現存する日本最古のワイナリーです。
いっぽう宮崎は、東京の「甲斐産葡萄酒」の経営を続けることになります。
ちなみに、高野正誠は、ブドウの栽培・醸造技術の普及活動につとめ『葡萄三説』という著書を残しています。この本は、現在、宮光園でも展示されています。
宮崎光太郎の成功
宮崎光太郎が日本ワインの礎をつくるのはここからです。
元々、農家の出身で、1874年には自分なりにワインの醸造も試していて、家族の反対がなければ、土屋、高野とともに、留学をしたかったという、宮崎光太郎は、まず、1890年に、自宅を改造し、醸造設備を整えます。これは、彼のノウハウを生かした日本式の醸造施設で、品質のバラツキを抑えながら、1892年時点では90キロリットルのワイン醸造能力と、ブドウのカスを利用して造れるブランデーの蒸留施設を持っていたといいます。
地元のブドウ栽培家とも良好な関係を維持し、ワインの売れ行きが良くないときでも、ブドウを買い、栽培農家を支えたそうです。
こうして、ワインの質・量を確保するとともに、販売活動にも力を入れます。
ワインには、薬用酒としての販路があることに注目した宮崎光太郎は、帝国大学を皮切りに、医療関係、病院にワインを販売。同時に、宮内省御用となり、明治天皇の結婚25周年の祝典に、ワインを100本献上し、自分のワインを宣伝したのです。
このときの彼のワインは、ラベルに大黒天のイラストが描かれていました。これも宮崎の作戦で、アイコニックでわかりやすいビジュアルで、宣伝効果を高めました。名前も、「大黒天印甲斐葡産萄酒」となっていました。
そして、経営状況改善の決定打になったのが、甘口ワインの製造だといいます。当時の日本では、ワインといえば甘いものでした。であれば、自分も辛口のワインにばかりにこだわっていても仕方がない、と、宮崎は、甲斐産葡萄酒を原料に、甘口ワインを製造。他社が輸入ワインに香料や砂糖をくわえて甘口ワインを造るなかで、独自性を発揮しました。
1902年からヱビ葡萄酒、などの名前で売り出された甘口ワインはヒット、さらに、1903年に中央線が甲府にまで伸びたことによる物流の効率化も後押しして、1904年、宮崎は、宮光園の前に、宮崎第二醸造所を構えるにまで至りました。
この第二醸造所が、現在はシャトー・メルシャン ワイン資料館として残っています。ここは大規模な資料館で、当時の醸造器具を見ることもできます。
宮光園のほうは1912年に、日本初の観光ブドウ園として公開。翌年に、中央線勝沼駅ができたこともあって、宮崎光太郎は、アグリツーリズムの父ともなりました。畑や醸造所を見学し、ブドウ棚の下でワインを試飲。場合によっては収穫体験もできる。いまでは当たり前のワイナリー訪問はここで始まったのです。
昭和に入り、経済恐慌や戦争で、日本は激動。宮崎光太郎の会社も、時代の荒波に揉まれることとなるのですが、その会社は、メルシャン、そしてシャトー・メルシャンというワインのブランドとして、今も受け継がれています。
ブドウの栽培、醸造、ワイナリーの運営、研究開発、販売、マーケティング。ワインにまつわる、あらゆることの原型を、宮崎光太郎は、デザインしたのでした。