ドイツ・ベルリンにあるオリンピアシュタディオン(写真:ロイター/アフロ)

 2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて半世紀ぶりに生まれ変わる国立競技場。その建設にあたり、「スタジアム」という施設の社会的意味と将来像は考慮されていただろうか。そもそもスタジアムとは一体どんな場所なのか。世界各国のスタジアムを訪れたサッカージャーナリストの後藤健生氏が、スタジアムの歴史と社会的位置づけを紐解いていく。(3回連載/第1回)

国民的な記憶と結びつくスタジアム

 ラグビー・ワールドカップ日本大会の幕が開き、来年(2020年)7月末にはオリンピック・パラリンピックの開催も予定されている日本では、これから否が応でもスポーツへの関心が高まっていくことだろう。建設中の新国立競技場も間もなく完成し、12月21日にはあのウサイン・ボルト氏を迎えてオープニングイベントが行われ、2020年元日にはこけら落としとしてサッカーの天皇杯全日本選手権決勝が開催される予定だ。

 そんなスポーツイベントの舞台となるスタジアムという建築物について、読者の皆さんはどのようなイメージをお持ちだろうか?

 陸上競技のためのトラックやサッカー、ラグビーのための芝生のピッチがあり、それを取り囲むようにスタンドが配置される・・・。スタジアムとは、実にシンプルな建造物だ。だが、人々の希望や歓喜、失望が交錯するスタジアムというのは、さまざまな“場の記憶”を呼び起こす。

 古い野球ファンだったら、かつての後楽園球場からは“ミスター”長嶋茂雄の姿を思い出すことだろうし、関西人は阪神甲子園球場といえばバース、掛布、岡田の3連発を思い起こすのかもしれない。

 国際競技大会だったら“国民的な記憶”と結びつく。

 19世紀に「国民国家」というシステムが作られた。それまで、人々は貴族とか市民、農民、僧侶といった身分によって結びついていたのだが、19世紀以降人々は「国民」という概念で統合されるようになった。言語や宗教、あるいは歴史を共有することで人々は「われわれは、一つの国民だ」という国民意識を持つのだ。

 たとえば日本人だったら源平の合戦や戦国時代の英雄たち、幕末維新の志士たちの物語を共有しているし、韓国だったら日本の侵略から国を守った李舜臣将軍の伝説が人々を結びつける。

 近代に入ると、スポーツ界の英雄たちも国民的な記憶として残るようになる。

 第2次世界大戦後、水泳で世界新記録を次々と樹立した「フジヤマの飛び魚」古橋広之進の姿を通じて日本国民は誇りを取り戻した。東京オリンピックでの「東洋の魔女」の金メダル獲得などもそうだろう。やはり敗戦国だった西ドイツ国民を奮い立たせたのは、1954年のサッカー・ワールドカップに優勝した西ドイツ代表チームだった。

独裁者にとっての権力装置

 人々の気持ちを大きく揺り動かすスポーツという営み、あるいはその舞台となるスタジアム。権力者がそのことに注目して、それを利用しようとするのも自然なことだ。

 絶対権力を握った全体主義国家の独裁者たちにとって、スタジアムは魅力的な権力装置となるのだ。

 ローマの皇帝たちは人々に皇帝に対する畏怖の念を抱かせ、また大衆に娯楽を提供するため、コロシアムのような円形闘技場を帝国の各地に建設した。

 スポーツを利用した近代の独裁者として最も有名なのは、1936年のベルリン・オリンピックを利用したアドルフ・ヒトラーだ。そして、ヒトラーはその舞台装置としてベルリンに巨大なオリンピアシュタディオンを建設した。

 もっともオリンピックのベルリン開催は、ヒトラーが権力を握るより前に決まっていた。ヒトラー自身は英米のアングロサクソン民族が主導する近代スポーツに批判的で、オリンピック開催にも反対していた。だが、権力の座に着いたヒトラーは、すぐにオリンピックの利用価値に気付いて、それを徹底的に利用した。ナチス体制の優位とアーリア民族の優秀性を宣伝しようとしたのだ。

 メインスタジアムはベルリン西郊に建設された。当初はコンクリート建築の予定だったが、政権を握ったヒトラーの命令で壮麗な石造りのスタジアムとなった。南部バイエルン州特産のリーダースドルフ石を使って136本の巨大な石柱が建設され、2層のアーチが立ち並ぶ姿は今も圧巻だ。メインスタジアムの近くには水泳プールなども建設され、またスタジアムの西側には「マイフェルト(5月広場)」と呼ばれる広大な芝生の広場が設けられ、同盟国イタリアのベニト・ムッソリーニ総統歓迎式典の時にはここを数十万人の群衆が埋め尽くしたという。

 ヒトラーが建設したベルリンのスタジアムは今でも健在で7万4000人を収容。2006年にはサッカーのワールドカップ決勝、2009年には世界陸上という世界的イベントがそれぞれ開催されている。

スポーツを政治利用したムッソリーニ

 ヒトラーより早くスポーツの政治利用を成功させたのがイタリアのムッソリーニだった。1934年にサッカー・ワールドカップの第2回大会を招致。この大会では地元イタリアが見事に優勝したが、ムッソリーニは全試合を観戦すると同時に、審判団に圧力を加えたとも言われている(ムッソリーニは、ヒトラーと違ってもともとスポーツ好きだった)。

 ムッソリーニは、この大会のために各地にスタジアムを建設した。トリノやフィレンツェには近代的なスタジアムを建設したが、ボローニャのスタジアムは煉瓦造りでアーチを巡らせた古典主義的なデザインのものだった。バックスタンドは市内を巡る「ポルティコ」と呼ばれる煉瓦造りのアーケードと一体化しており、そのバックスタンドの中央のタワー内にはムッソリーニの黄金の騎馬像が建てられており、タワーの裏側、目抜き通りに面した部分はバルコニーになっており、式典の時に指導者たちがここに居並んで閲兵を行った。

 第2次世界大戦後、もちろんムッソリーニの騎馬像は撤去されたが、スタジアムは今でも古典的なデザインのまま現存しており、ボローニャFCのホームスタジアムとしてセリエAの試合会場として使われている。日本代表の20歳の若きDF冨安健洋が今シーズンから加入して活躍しているクラブだ。

イタリア・ボローニャにある「スタディオ・レナート・ダッラーラ」。ボローニャFCがホームスタジアムとして使用している(出所:Wikipedia

 ムッソリーニは、1940年のオリンピックをローマに招致するため、首都ローマにもスタンドに大理石をふんだんに使った豪華なスタジアムを計画した。ムッソリーニは1940年大会の開催権を同盟国の日本に譲り、その後第2次世界大戦が勃発したためオリンピックは中止となってしまったが、戦後、スタジアムはムッソリーニの計画の通りの形で完成し、1960年オリンピックのメインスタジアム、スタディオ・オリンピコとして使用された(その後全面改装され、残念ながらかつての姿はとどめていない)。

経済復興を誇示し、祝う場所

 共産主義国の諸国の独裁者たちも、権力装置とするために巨大スタジアムを建設している。かつてのソ連(現在のロシア連邦)の首都モスクワには、革命の指導者の名を冠したレーニン中央スタジアムがあった。スタジアムが建設された1950年代のソ連では「スターリン様式」と呼ばれる列柱を多用した重厚なデザインの全盛期で、レーニン・スタジアムもスターリン様式による建築物だった。

 1991年のソ連の崩壊後、スタジアム名から「レーニン」の名が消えて現在はスタディオン・ルジニキと呼ばれており(「ルジニキ」は地名)、内部は全面改装されてサッカー専用競技場となり、2018年のワールドカップ決勝の会場となったが、外部のデザインはかつてのスターリン様式がそのまま残され、地下鉄駅からのアプローチには今でも巨大なレーニン像が屹立して人々を見下ろしている。

モスクワにあるスタディオン・ルジニキの全景(スタディオン・ルジニキ公式サイトより)。後方に見えるタワー状の建築はやはりスターリン様式のモスクワ大学

 これまで、21世紀に成立していくつかの全体主義国家のスタジアムを見てきたが、たとえば1964年の東京オリンピックのために建設された旧国立競技場も、戦後日本の経済復興を世界に示すものであり、当時の池田勇人、佐藤栄作政権の経済政策の正しさを誇示する建造物だったのかもしれない。

 東アジアでは、夏のオリンピックがほぼ20年おきに3回開催されているが、1964年の東京、1988年のソウル、そして2008年の北京と、いずれも各国の経済が先進国にキャッチアップしたことを祝うための大会であり、それを象徴するのが各大会のメインスタジアムだった。ソウルの蚕室運動場は韓国の経済発展を象徴する漢江南岸に建設され、北京大会のメイン会場「鳥の巣」は天安門から故宮を通る北京の中心軸の延長線上に建設された。

 2020年のオリンピックのメイン会場となる新国立競技場は、はたして世界に対してどんなメッセージを伝えようとしているのか。そして、そこでどんな記憶が生まれていくのだろうか・・・。

◎ 後藤 健生(ごとう・たけお)
サッカージャーナリスト。慶應義塾大学法学部大学院博士課程(政治学)修了。元関西大学客員教授。ワールドカップは1974年大会からすべて現地取材。近著に『世界スタジアム物語』(ミネルヴァ書房)。