2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて半世紀ぶりに生まれ変わる国立競技場。その建設にあたり、「スタジアム」という施設の社会的意味と将来像は考慮されていただろうか。そもそもスタジアムとは一体どんな場所なのか。世界各国のスタジアムを訪れたサッカージャーナリストの後藤健生氏が、スタジアムの歴史と社会的位置づけを紐解いていく。(3回連載/第2回)
スタンドが木製から鉄筋コンクリートに
スタジアムというのは、もともとはきわめてシンプルな構造の建造物だ。最初は選手たちがプレーするグラウンドさえあればよかった。観客はグラウンドの周囲に立ってプレーを見ていたからだ。しかし、観戦者の数が増えてくると、試合がよく見えるようにグラウンドの外に土手が築かれ、さらに入場料を取るようになると「タダ見」ができないように周囲には塀が巡らされた。当時は、建築物としては地元の名士やスポンサーなどのゲストのための小さな木造の「パビリオン」があるくらいのものだった。ゲストたちは、ここでティータイムを楽しみながら試合を観戦した。
しかし、スポーツの人気が高まり、1万人以上の観衆が詰めかけるようになると土手は舗装され、事故を防ぐために鉄柵も取り付けられた。土手だけでは収容力が足りなくなるとパビリオンだけではなく、一般観客用のスタンドも建設され、その一部には座席も取り付けられた。
スタンドは当初は鉄骨を組んで木製の床を取り付けた程度のものだった。だが、1902年には英国北部スコットランドのグラスゴーで、イングランドとの国際試合の最中にスタンドが崩落して25人の死者を出す事故が起こった。原因は使用した材木の強度が足りなかったためとも、設計ミスだったともいわれている。
グラスゴーは工業都市で、工場労働者の間でサッカー人気が高まったので各クラブが競って5万人程度の大きなスタジアムを造っていた。事故が起こったアイブロックスパークもそんなスタジアムの1つだった。そこで、もっと安全なスタンドを造るために新しい建築技術が取り入れられることとなった。
たまたま、グラスゴーという街は工学の町だった。たとえば、産業革命の原動力となった蒸気機関を発明したジェームス・ワットもスコットランド出身でグラスゴー大学で仕事をしていた人物だった。
まず、スタンド建築に取り入れられたのは鋼鉄製の梁や鉄筋コンクリートの技術だった。古代から使われているコンクリートに鉄筋を組み合わせて強度を高める技法は19世紀半ばのフランスで採用され、20世紀の初め、つまりスタジアム建築が発達するのと同じ時期に発展した技術だった。グラスゴー出身のアーチボルド・リーチという建築技師がこうした新技術を駆使したスタジアム建築の第一人者となり、英国各地に大規模なスタジアムを建築していった。
こうして、スタジアム建築の基礎が確立されると、次に建築家たちが腕を振るったのはスタンドを覆う大屋根だった。
「柱のない大屋根」が実現するまで
近代スポーツ発祥の地、英国は雨が多い国なので、観客が濡れないようにスタンドには屋根が架けられた。しかし、屋根を支える鋼鉄製の柱は視線を遮り、試合を観戦する邪魔になった。「柱のない大屋根」の実現に建築家たちが挑戦した。
この課題を解決したのがキャンティレバー(片持ち梁)、つまり一端が固定された梁やプレートの技術だった。観客席の後部の壁や梁に固定されてスタンド上に張り出した屋根で、グラウンドの側には柱がないため観客の視野を遮らないのだ。
しかし、スタンドを覆うほどの大きさの屋根の重量を支えるのは容易ではなかった。
初めてこの工法をスタジアムに応用したのは、イタリアの有名な建築家ピエール=ルイジ・ネルヴィが設計したフィレンツェのスタジアム、スタディオ・アルテミオ・フランキだ。1934年のサッカーのワールドカップのためにムッソリーニ総統が各地に造らせたスタジアムの1つだ。鉄筋コンクリート造りのモダンなデザインのスタジアムで、メインスタンド中央がキャンティレバーの屋根に覆われていた。
1938年のワールドカップはフランスで開かれたが、ワインで有名なボルドーに新築されたスタジアムはスタンド全面が連続したキャンティレバーの屋根に覆われていた。
その後も、1950年のブラジル・ワールドカップのために新設された20万人収容の世界最大のスタジアムの1つ、リオデジャネイロのマラカナンにはスタンド裏に太い梁を使ったコンクリート製のキャンティレバー屋根が架けられた。
1988年のソウル五輪のために韓国を代表する建築家、金寿根(キム・スグンが)設計した蚕室(チャムシル)オリンピック・スタジアムも美しい曲線を描いたキャンティレバー屋根の傑作の1つだった。
20世紀最後となった1998年のフランス・ワールドカップは日本が初めて出場した大会だったが、決勝戦が行われたパリ北郊のスタッド・ド・フランスの面積6ヘクタール、重さ1万3000トンという大屋根は20本のマストからケーブルで吊り下げられたもので、下から見るとまるで空中に浮いているように見えた。これは、20世紀後半になってようやく実用化された「斜張橋」の技術を応用したもので、後に「国際橋梁構造工学協会賞」を受賞している。
日本のスタジアムでも、2001年完成の豊田スタジアム(愛知県)の屋根は高さ90メートルの太いマストからケーブルで支えられた印象的なデザインだ。設計は黒川紀章。2018年のロシア・ワールドカップのために建設されたザンクトペテルブルグのスタジアムも黒川の設計で、2007年に亡くなった黒川の遺作とも言える建築だが、豊田スタジアムとよく似た太いマストから屋根を吊る構造となっている。
開閉式屋根が解決した芝生問題
20世紀後半に登場したのが、スタンドとグラウンドが屋根に覆われたドーム型スタジアムだ。世界初のドーム型スタジアムは、1965年にアメリカのテキサス州ヒューストンに建設された野球場、アストロドームだった。その後、ドーム球場はアメリカ各地に建設され、日本でも読売巨人軍の本拠地、東京ドームなどドーム型野球場が普及した。雨や暑さ、寒さを防げるのが大きな利点だが、日照や通風がないので天然芝を育てることはできないという問題がある。そこで、アストロドーム建設の時に新たに開発されたのが人工芝だった。
しかし、人工芝でのプレーは膝に負担をかけ、選手生命を短くしてしまうため、アメリカではドーム球場は次々と取り壊され、今では屋外の天然芝の野球場が主流となっている。
芝生の問題を解決するために導入されたのが開閉式屋根だ。雨など悪天候の時には屋根を閉じるが、普段は屋根を開いておくことで天然芝を使用できるのだ。オランダ・アムステルダムのアレーナは1996年に完成した世界初の開閉式屋根を備えた大規模スタジアムだった。日本でも、前述の豊田スタジアムや大分スポーツ公園総合競技場などに開閉式屋根が採用された(大分も黒川紀章設計)。
ただ、開閉式屋根は故障が多く、また屋根を開けていても開口部が小さいため日照不足で芝生の養生が難しい。開閉式屋根と天然芝をどのように共存させるのかが、これからのスタジアム建築の大きな課題となるのではないだろうか。
かつて、スペインの名門サッカークラブ、レアル・マドリードを取材した時に、試合のない時には芝生のピッチを屋根の高さまで持ち上げて日照を確保するというアイデアを聞いたことがあるが、実現は難しいようだ。だが、試合のない時に芝生のピッチを水平に移動させてスタジアム外に出しておく可動式ピッチの技術はすでに実用化されている。
札幌ドームもその1つ。普段は可動式の芝生のピッチはドーム外に置かれ、野球は人工芝の上で行われる。そして、サッカーやラグビーに使う時には8300トンもある芝生のピッチを空気圧で浮かせてドーム内に移動させて使用するのだ。このドームのおかげで、冬は厳しい寒さに見舞われる札幌でも快適にスポーツを楽しむことができるのだ。
地球温暖化のせいか、最近の日本の夏は猛暑に見舞われ、サッカーのような激しいスポーツを行うには厳しすぎる環境となっている。ドーム型で、しかも天然芝が使用できる可動式ピッチという技術は暑熱問題の1つの解決になるのかもしれない。
◎後藤 健生(ごとう・たけお)
サッカージャーナリスト。慶應義塾大学法学部大学院博士課程(政治学)修了。元関西大学客員教授 ワールドカップは1974年大会からすべて現地取材。近著に『世界スタジアム物語』(ミネルヴァ書房)。11月に『森保ジャパン 世界で勝つための条件 ~歴代日本代表監督論~』(仮題、NHK出版新書)を上梓の予定。