幕府はなぜ大名を取り潰しにするのか?数多くの大名が改易になった理由、幕藩体制の基本原理に基づくタテマエと本音 撮影/西股 総生(以下同) (画像1/12) 赤穂城。赤穂浅野家は松の廊下の刃傷事件によって改易された (画像2/12) 松江城を築いたのは堀尾吉晴だったが、堀尾家は3代にして無嗣断絶となった (画像3/12) 広島城。福島正則は関ヶ原合戦ののち安芸・備後に封じられてこの城に入った (画像4/12) 萩城にある毛利輝元像。輝元は関ヶ原合戦ののち領地を大きく削減されて萩に移った (画像5/12) 江戸城の富士見櫓 (画像6/12) (画像7/12) 江戸城本丸にある松の廊下跡 (画像8/12) 山形城にたつ最上義光像。最上家は出羽の大大名となったが、義光の死後は家中の内服が相次ぎ実質的に改易された (画像9/12) 肥後国衆一揆の中心勢力が籠城した田中城。写真の堀切は立花宗茂隊が突入した場所 (画像10/12) 福井城。家康の孫にあたる松平忠直は越前67万石の太守だったが乱行が相次いだため改易された (画像11/12) 江戸城の北拮橋門。武家政権とはどこまでいっても軍事政権である (画像12/12) 幕府はなぜ大名を取り潰しにするのか?数多くの大名が改易になった理由、幕藩体制の基本原理に基づくタテマエと本音 この写真の記事を読む