シチリアワインのアイコン
イタリア好きの中にも、シチリアについての愛をことさらに語る人は多い。海と太陽のイメージ、魚介を中心としたシンプルで親しみやすい料理の数々、そしてワイン! ワインの生産量はイタリア20州のうちでもトップ。そして今や量だけでなく、クオリティにおいてもイタリアを代表する産地の一つになっているという話は、ワイン好きにはもはや説明不要であろう。
今回は、シチリアワイン変革の立役者、ドンナフガータのワイナリーを巡る旅に参加した。1983年、ジャコモ・ラッロと妻ガブリエラが創業したワイナリーは、家族経営という核を守ったまま、世界中にシチリアワインの進化を知らしめるアイコンとして君臨し続けている。アーティスティックなエチケット、ドルチェ・アンド・ガッバーナとのコラボレーションなど話題にも事欠かない。「ドンナフガータ(逃げた女)」の名は、19世紀初頭のブルボン朝王妃の逸話を元につけられた。何ものにもとらわれず、生きる場や術を模索するポジティブな「フガータ」スピリトは、今もファミリーの中に息づいている。
シチリアよりチュニジアに近い、パンテッレリア島へ
ドンナフガータは、シチリアに5つの拠点を持つ。マルサラとその近郊のコンテッサ・エンテリーナ、ヴィットーリア、エトナ、そしてパンテッレリア島だ。今回は本拠地ともいえるマルサラの醸造所とパンテッレリア島、そしてエトナを旅した。すべてがシチリアワインとドンナフガータを語る上で欠くべからざる重要な場所だが、話はパンテッレリアから始めたい。理由は、短い行程の約半分を過ごし、ここで造られるパッシート「ベン・リエ」について多くを知ったからであり、何よりパンテッレリアという土地から強烈なインパクトを感じ取ったからだ。
シチリア本島北西部のパレルモ空港(正式名称はファルコーネ・ボルセリーノ国際空港)で小型機に乗り込む。パンテッレリアまでの飛行時間は1時間弱とあっという間で、空港では日本からの記者チームをアテンドしてくれるバルド・パレルモさんが出迎えてくれた。車で山の斜面を走る道をガンガンのぼってワイナリーへ向かう途中、ふとメンバーの一人が「この島に信号はないの?」と、ドライバーに尋ねる。と、「Uno solo!」との答えが返ってきた。たった一つ。この旅の間に果たしてその唯一の信号を見ることがあるのか……などと考えるうちに、信号に出会わぬままリッチな景観で周囲に異彩を放つ「ドンナフガータ ワイナリー ファームハウス」に辿りついた。
パンテッレリアは、大きく3つのエリアに分けられる。東のカンマ、西のスカウリ(チュニジアが見える!)、そしてささやかな市街地がある北部パンテッレリアだ。ドンナフガータのワイナリーは、カンマに位置する。標高約約400メートル。建物の裏手の見晴らしのよいテラスに出ると、丘陵地に連なる段々畑の間に、この地に特有の石造りの住居・ダンムーゾの白い屋根が点在する景色が広がる。さらに先に目をやると、紺碧の海と空が溶け合うかのような水平線が美しい。
極限のワイン産地で生まれる、パッシート・ディ・パンテッレリア
火山島であるパンテッレリアは、歴史的に漁業が栄えず、海岸線に砂浜がないという理由から美しい海は観光資源として活用されてこなかった。島の主要産業は昔も今も変わらず農業。だが、降雨量が極端に少なく、アフリカからの強風が吹き付ける過酷な土地では栽培できる農作物が限られている。オリーブ、ケイパー、そしてジビッボ(モスカート・ディ・アレッサンドリア)というぶどうだ。ジビッボから造るパッシート(干しぶどうで造る甘口ワイン)は、パンテッレリアを代表するワインで、ドンナフガータでは「ベン・リエ」がそれにあたる。
厳しい土地では、ぶどう樹の仕立てもまた独特だ。斜面に広がる畑には、土砂崩れを防ぐために築かれた溶岩石の石垣が延々と連なる。溶岩石は畑の土から掘り出されたもので、石垣も人の手で築かれている。土地にある資源を活用して付加価値とするサーキュラーエコノミー。傾斜地の段々畑は機械での農作業が不可能に近く、ほぼすべてが手作業で行われる。特定の厳しい環境下(500m以上の標高、急勾配、石段の畑など)でのぶどう栽培を指す「Heroic Viticulture(英雄的ぶどう栽培)」という言葉があるが、パンテッレリアのドンナフガータの畑もそれに該当する。
株仕立てのぶどう樹は、1本1本が窪地を意味する「コンケ」という穴の中に植えられている。このコンケが、ぶどう樹を強い風から守り、朝露を木の根元に蓄え、平行に伸ばした枝にしげる葉も、蓋のような形で穴を覆って湿度を保つ役割を果たすのだという。なんとプリミティブ、かつ合理的なことか。砂漠のような土地で一切の灌漑をせずにぶどうを育てられるのはこのパンテッレリア式アルベレッロ仕立て(アルベレッロ・パンテスコ)のおかげにほかならず、2014年にはユネスコの無形文化遺産に登録されている。未来への示唆に富んだ、サステナブルでクリエイティブな農の形が示されている。
かくして苦労に苦労を重ねて得たジビッボで「ベン・リエ」が醸されるわけだが、その醸造にもまた並々ならぬ手間がかかる。発酵中のモスト(果汁)に天日で乾燥し旨味を凝縮したぶどうを段階的に加えて7~10日間ほどマセレーションし、再び搾って発酵を続ける。パッシート・ディ・パンテッレリアの伝統製法にならったものだ。このマセレーションにより、豊かな香りと甘味、酸味がバランスよく液体の中に凝縮される。手間もさることながら、1本のワインに使用されるぶどうの量は、通常の約3倍の約4kg。あらゆる意味において贅沢なワインだ。
この「ベン・リエ」を垂直試飲する機会に恵まれた。用意されたのは2021年、’16年、’13年、’11年、そして’08年の5ヴィンテージだ。‘21年は輝きのある琥珀色で、上質なダージリンティーのようなアロマとアプリコットのようなフレッシュな酸味が印象的。それが’16年になると果実味にセミドライのニュアンスを感じるようになり、’13年は、さらに濃いウーロン茶のような飴色に。ヴィンテージをさかのぼるほどに角が取れ、紹興酒のような熟成感のある味わいになっていく。極上のデザートワインとしてはもちろん、合わせる料理次第で食中酒としても活躍するだろう。
あるものは少ないけれど、すべて極上。厳しさの先にある豊かさ
「地中海の黒い真珠」と呼ばれるパンテッレリアでは、ワイナリーの外にも驚くべき場所がたくさんあり、忘れがたく心に残っている。ヴェネレ湖という汽水湖の類稀な美しさや、水が極端に少ない土地で守られてきた公共の水源・ブビラ、海沿いに湧く温泉の源泉に手を触れたときの温かさ。「インドのイチジク」の名を持つサボテン、フィーコディンディアの珍奇な姿も。宿泊したホテルはヴィラスタイルで、全棟がダンムーゾのスタイルだった。
中でもひと際驚愕したのが、ケイパーの木と畑だ。小さな蕾を加工した製品は、日本でも料理好きやワイン好きにはおなじみの食材だ。が、蔦のように地を這う茂みを「これがケイパー(イタリア語では「カッペリ」)だよ」と、教えられて「えぇ!」と、声が出た。一体どんな木を想像していたのか、いや想像したこともなかったからだろう。普通では絶対にアクセスできない谷間にある畑は、遺跡のように見えて現役で、かつてぶどう畑であったろうテラスに延々とケイパーが植えられていて、誰もがその景色に息を飲んでいた。私も。足元の、決して恵まれているといえない土地からいかにして作物を得るか。厳しい自然と、そんな土地で生きる人の知恵と業が独特の景観を作っていた。
シチリアの郷土料理をワインと楽しむ機会にも恵まれたが、到着時、ワイナリーで用意してくれた朝食も素晴らしかった。パスティッチョット、カッサータ、ラヴィオーロなどの焼き菓子に新鮮そのもののオレンジジュース。エスプレッソドリンクは、希望をきいて淹れたてを運んできてくれるから香り高い。焼き菓子は上質な粉の香り、しっかりと焼き切った香ばしさが素晴らしく、リコッタチーズやジャムの風味も格別で思わず全種類に手を出してしまったほど。ワイナリーを訪問し、ワインとともに出されるサラミやチーズに感動することはあったけれど、焼き菓子は初めて。立ったまま、わずか15分ほどの朝食が、鮮明に記憶に刻まれた。
https://www.donnafugata.it/en/