大谷 達也:自動車ライター

© Photo Max Earey

ひとりのエンジニアが変えたアストンマーティン

 ひとりのエンジニアが自動車ブランドの価値を決定的に変えてしまうことがある。

 近年のアストンマーティンでいえば、マット・ベッカーがそれにあたる。

 26年余りをロータスのエンジニアとして過ごしたベッカーは2015年にアストンマーティンのチーフエンジニアに就任。以来、DB11、ヴァンテージ、DBS、DBXなどをリリースしてきた。彼は2022年にアストンマーティンを離れ、現在はジャガー・ランドローバーでビークル・エンジニアリング・ディレクターを務めているが、それ以降にデビューしたDBX707DB12新型ヴァンテージ、そして今回、紹介するヴァンキッシュの4台もまた、いかにもベッカーらしい乗り味が感じられるモデルばかりなのである。

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 なぜ、ベッカーは退職後もアストンマーティンの製品作りに影響を与え続けているのか?

 その理由はシンプルで、彼がアストンマーティン在籍中にロータスから呼び寄せたエンジニアたちが、いまもアストンマーティンの車両開発で重要な役職に就いているからだ。

 ベッカーと入れ替わる形でアストンマーティンに入社し、現在はディレクター・オブ・ビークル・パフォーマンスのタイトルを持つサイモン・ニュートンもベッカーの後継者といって差し支えのない人物である。

サイモン・ニュートン氏(撮影は著者)

 ニュートンは2000年から2007年までロータスに在籍し、ベッカーの下で働いた。その後はベントレーやウィリアムズF1でエンジニアを務めた後、アストンマーティンに加入したが、ニュートンによれば、自動車作りの基礎はすべてロータス時代に学んだという。

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「ロータスではエンジニアがサーキットで試作車をテストし、開発を行ないます。そればかりか、ときにはエンジニア自身がサスペンション・ダンパーを分解。内部のシムやバルブ、オイルなどを交換して特性を調整し、再びサーキットで走らせるということもします」

 エンジニアが自ら車両をテストするだけでなく、足回りのセッティングまで行なう自動車メーカーはそう多くない。しかし、ベッカーやニュートンは、そういう経験を通じて車両開発の理論と実際を体験し、学んでいったのだ。

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 これにどんな効果があるかといえば、クルマ1台分の働きを理屈だけでなく、肌感覚で捉えられることにある。「たとえばリアサスペンション・ダンパーの伸び側減衰力を高めると、コーナリング時のリアサスペンションの反応が速くなります。こうしたことを覚えておくと『クルマのどこを変えるとどんな効果が得られるか?』の答えが直ちに得られるようになります」

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受け継がれる伝統

 現代の自動車開発はプロセスが複雑になりすぎて、その全体像を把握できる人物がどんどん少なくなっている。このため、ひとつの性能を実現するうえで、どこをどう変えるのがいちばん効果的で近道であるかを見極められるエンジニアが減っているとされる。さらにいえば「どんなクルマを作るべきなのか?」というコンセプト自体が不明確になっている傾向も否めない。

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 けれども、車両の構造が比較的シンプルなかつてのロータスは、ひとりがクルマの全体像を把握するのが容易だったし、そういうクルマ作りの取り組み方が代々伝えられてきた。そうした能力というかセンスが、クルマ1台をまとめあげるうえで大きな威力を発揮するのだろう。

 ニュートンが中心となって開発した新型ヴァンキッシュは、まさにそういった伝統を感じさせる作品だった。

 まずは製品のコンセプトが明確で、エンジン、ギアボックス、シャシー、ボディがすべてそのコンセプトに沿って作り上げられている。おかげでクルマのキャラクターがはっきりとしていて、矛盾したところがない。その意味で、実に高い完成度のグランドツアラーに仕上がったように感じられた。

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 新型ヴァンキッシュの最大の特徴は、新開発のV12ツインターボエンジンを搭載したことにある。

 ヴァンキッシュを除くアストンマーティンのカタログモデルは、いずれもメルセデスAMGが生み出したV8ツインターボエンジンを搭載している。V12エンジンを積んでいるのは、ヴァンキッシュだけだ。

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 そう聞くと、高性能を売り物にしたスパルタンなモデルを想像しがちだが、新型ヴァンキッシュの走りは実に優雅。そのサスペンションには路面からの衝撃を効果的に吸収できる能力が備わっている。したがって乗り心地は実に快適。アストンマーティンのコアバリューである長距離ドライブは得意中の得意といえる。

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 エンジンの特性も、こうしたエレガントな走りとぴったりマッチしている。GTモードで走ればエンジン音も低く抑えられて車内は静か。そこから回転数を上げていくと、4000rpmあたりからV12らしい滑らかなエグゾーストサウンドが聞こえるようになるが、その音量は、決して耳をつんざくようなものではなく、あくまでも精密なエンジンが回っていることを実感させてくれる心地いいもの。実はこのエンジン、最高出力が835psもあって、0-100km/h加速はわずか3.3秒、最高速度は340km/hに達するのだが、そんな高性能振りはおくびにも出さず、まずは快適なキャビンを生み出すことに大きく貢献してくれる。この辺のバランス取りというか、クルマのコンセプトを製品としてまとめ上げていく的確さに、ベッカー→ニュートンと続くロータス由来の伝統を見るような思いがした。

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 もっとも、ワインディングロードに足を踏み入れれば、極めて強い一体感を味わいながらコーナーを駆け抜けていく歓びも得られる。この辺もアストンマーティンらしいところだし、ロータスの伝統を感じさせる部分でもある。

 いかにもアストンマーティンらしいエクステリアデザインは優美にしてダイナミック。インテリアはデザインだけでなくカラーのセンスもバツグンで、この辺も長距離ドライブの際にパッセンジャーを楽しませてくれる要素のひとつだろう。

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 ちなみに現行世代のアストンマーティンはヴァンテージがスポーツカー、DB12はグランドツアラーと明確にキャラクターが区別されているが、ヴァンキッシュはDB12の延長線上にあってパフォーマンスとエレガントさをさらに強化したモデルというのが私なりの解釈。そうしたキャラクターを生み出すうえで、V12エンジンのスムーズさとパワーが大きく貢献しているという点に、ヴァンキッシュの魅力はある。