幕末から明治期に活躍した絵師・河鍋暁斎と、探検家、好古家、著述家の松浦武四郎。2人の偉業と交流を紹介する展覧会「画鬼 河鍋暁斎×鬼才 松浦武四郎《地獄極楽めぐり図》からリアル武四郎涅槃図まで」が静嘉堂@丸の内にて開幕した。
文=川岸 徹
探検家・松浦武四郎とは?
蝦夷地と呼ばれていた北の大地に「北海道」という名称が付けられたのは、明治新政府が発足して間もない1869(明治2)年8月15日のこと。名付け親は松浦武四郎なる人物だ。
武四郎は伊勢国須川村(現在の三重県松阪市)の下級武士の家に生まれ、13歳から3年間、平松楽斎に付いて儒学を学んだ。16歳の時から全国各地を旅するようになり、17歳から9年間は一度も故郷に帰ることなく各地の名所や旧跡を訪ね歩いたという。
そんな武四郎が長崎を訪れた際、蝦夷地について気になる話を聞いた。「蝦夷地はロシアをはじめ、諸外国による侵略的危機にさらされている」と。武四郎は幕府の領地でありながらその実情がよく知られていなかった蝦夷地を調査し、対策を練るべきだと考える。
28歳になった武四郎は、1845年(弘化2)、蝦夷地へ第1回目の探検に赴く。以降41歳までの間に合計6回の調査・探検を行い、その結果を151冊に及ぶ書物にまとめた。そこには蝦夷地、樺太(現在のサハリン)、国後島、択捉島の地理や自然のほか、アイヌ民族の文化や暮らしぶりなどが詳しく記されている。
北海道ではなく「北加伊道」
武四郎が最後の蝦夷地探検を終えてから10年。1868年に江戸幕府は終焉を迎え、明治新政府が誕生。蝦夷地に開拓使が新設され、武四郎は「蝦夷地開拓御用掛」に任命された。任についた武四郎は、蝦夷地の新しい名前を考案。明治新政府に「日高見道」「北加伊道」「海北道」「海島道」「東北道」「千島道」の6つの案を提出した。
選ばれたのは「北加伊道」。“加伊”とはアイヌ民族の言葉で、蝦夷地やそこに住む人たちのことを指す。武四郎は探検に協力的で、いつも道案内役を務めてくれたアイヌの人たちに敬意を払い、“アイヌ民族が暮らす場所”という意味を込めて「北加伊道」と名付けたのだ。
だが、明治新政府は「北加伊道」の“加伊”を“海”に変え、「北海道」と命名。政府は蝦夷地をアイヌの場所ではなく、日本固有の領土とし、アイヌ民族の同化政策を進めたかったのである。
武四郎は『近世蝦夷人物誌』という書物で、アイヌの人たちが松前藩や和人による圧制に苦しむ様子を記した。だが、出版の要望は却下。また、アイヌの人たちの暮らしが楽になるようにと場所請負制の廃止にも努めた。表向きは廃止になったものの、制度は名称を変えて事実上存続。こうしたことに失望し、武四郎は開拓使の職を辞し、従五位の地位を返上。以降、武四郎は「馬角斎」の号を用いて、著述、出版、古物蒐集に情熱を傾けることになる。