武四郎のご近所さん、河鍋暁斎

「画鬼 河鍋暁斎×鬼才 松浦武四郎」展示風景。河鍋暁斎《野見宿禰》明治17年(1884)松浦武四郎記念館蔵

 さて、松浦武四郎の人生に、絵師・河鍋暁斎がどう関わってくるのか。それが今回の展覧会「画鬼 河鍋暁斎×鬼才 松浦武四郎」のテーマだ。

 幕末に生まれた河鍋暁斎は6歳で浮世絵師・歌川国芳に入門、9歳で狩野派に転じ、その早熟かつ天才的な画力から狩野派の師・前村洞和から「画鬼」と呼ばれた。人物画、風俗画、美人画、花鳥画、山水画、幽霊・妖怪画、戯画となんでも描くことができ、しかも筆が速くて正確。人物や生き物の一瞬の動きを巧みに捉える表現力は、海外でも絶賛されている。ちなみに現在のイギリスでの人気は日本以上と思えるほど高い。展覧会が相次いで開催され、漫画家たちは暁斎作品を参考にし、暁斎の絵を集めた“タトゥーの図案書”まで発行されている。

 そんな河鍋暁斎は、松浦武四郎と“ご近所さん”だった。明治の初め頃、暁斎は湯島に、武四郎は馬場先門の角の岩倉邸長屋に、明治6年からは神田五軒町に居住。気軽に行き来する仲だったという。

 武四郎は暁斎の画力を高く買っており、自分の書物に挿絵を描いてほしいと依頼。暁斎は明治5年に蝦夷地の探検記である『西蝦夷日誌』に、明治10年には武四郎のコレクションをまとめた図録『撥雲余興(はつうんよきょう)』に挿絵を描いた。そして明治14年、暁斎は《武四郎涅槃図》の依頼を受ける。

 

画中に登場する古物を合わせて展示

「画鬼 河鍋暁斎×鬼才 松浦武四郎」展示風景。重要文化財 河鍋暁斎 《武四郎涅槃図》明治19年(1886)松浦武四郎記念館蔵

 本展のハイライトは、何といってもこの《武四郎涅槃図》。釈迦が入滅するときの様子を描いた「涅槃図」の形式を取ってはいるものの、驚くべき大胆なアレンジが施されている。涅槃に入る釈迦は、胸に自慢の大首飾りを、腰に愛用の煙草入れを付けた松浦武四郎の姿。その周りには本来描かれているはずの釈迦の弟子や十二支の動物たちに代わり、武四郎が集めた愛玩品が描き込まれている。

「画鬼 河鍋暁斎×鬼才 松浦武四郎」展示風景。《大首飾り》縄文時代~近代 静嘉堂蔵

 木彫の《聖徳太子像》、富士山を眺める《西行法師坐像》、米俵に乗り小槌を持った《鉄製大黒像》、さらにはエジプト新王国時代(紀元前14世紀)につくられた《シャブティ》(死者が冥界において課される仕事を代行する人をかたどった小像)も。天上から雲に乗って駆け付けるのは摩耶夫人一行ではなく、古画から抜き出した遊女たちだ。こうした武四郎のコレクションの品々が、《武四郎涅槃図》と合わせて展示されている。

「画鬼 河鍋暁斎×鬼才 松浦武四郎」展示風景。重要文化財 三浦乾也、河鍋暁斎彩色《妙楽菩薩塑像》明治10年(1877)松浦武四郎記念館蔵

 なんとも風変りで、武四郎の洒落が感じられる涅槃図。だが、単なる“おふざけ”で終わらないのは、やはり暁斎の画力によるところが大きい。それぞれの古物の特徴を捉えながらも、そこに悲しみの表情を与え、涅槃図ならではの厳かな空気感を醸し出している。

《武四郎涅槃図》の完成に暁斎はあしかけ6年の時間を費やした。武四郎は新しく入手した古物を書き加えるように指示したり、時にはダメ出ししたりすることもあったらしい。後年、暁斎は自身の日記『暁斎絵日記』の中で、松浦武四郎を「いやみ老人」と記した。

「画鬼 河鍋暁斎×鬼才 松浦武四郎」展示風景。河鍋暁斎《地獄極楽めぐり図》(部分)明治2〜5年(1869〜72)静嘉堂蔵

 展覧会には、暁斎の代表作《地獄極楽めぐり図》も出品されている。暁斎の奇想天外な画力と卓越した色彩感覚を堪能できる逸品。13歳年上の武四郎が暁斎の才能に惚れ、人生の集大成といえる涅槃図を依頼したくなる気持ちがよく分かる。