叔父・道長を超える昇進

 伊周の出世はめざましかった。

 同年9月には17歳で蔵人頭に、翌正暦2年(991)正月には参議となって公卿に列し、同年9月には権中納言となっている。このころ、代明親王(醍醐天皇の皇子)の子・源重光の娘と結婚したと思われる(倉本一宏『ミネルヴァ日本評伝選 藤原伊周・隆家——禍福は糾へる纏のごとし——』)。

 渡辺大知が演じる藤原行成の日記『権記』正暦3年(992)8月28日条によれば、権大納言であった源重光は、女婿の伊周にその職を譲ったという。

 伊周は19歳にして権大納言に任じられ、正暦2年に権大納言となっていた27歳の叔父・藤原道長と並んだ。

 さらに、疫病が流行し始めた正暦5年(994)の8月、道隆は3人を超越(ちょうおつ)させて、21歳の伊周を内大臣に任じている。

 道隆は内大臣から関白に就任しており、これは伊周の関白継承への布石であったといわれる。

 道長はこのとき、伊周より二階級も下の権大納言だった。伊周は8歳年上の伯父を、追い抜いたのだ。

 だが、中関白家の栄華も終焉が近づいていた。

 

父・道隆の死

 道隆は、正暦5年(994)の11月ごろから持病が悪化し、病床に伏してしまう。

 道隆が患っていたのは、糖尿病だとみられている(服部敏良『新装版 王朝貴族の病状診断』)。

 疫病が蔓延する翌長徳元年(995)の3月、病が重くなった道隆は、嫡男・伊周への関白継承を図ったが、一条天皇はそれを許さなかった。

 王朝時代には、摂関には天皇の外祖父、または外伯叔父(そとおじ/母方の伯父、叔父)が就任することが望まれていたという(繁田信一『天皇たちの孤独 玉座から見た王朝時代』)。

 伊周は、一条天皇の従兄弟にすぎなかった。

 だが、一条天皇は「道隆の病の間」という期限付で、伊周を臨時の内覧(天皇に奏上する文書や、天皇から宣下される文書を先立って内見する役目のこと。関白に准じるとされる)に就けている。

 道隆は同年4月10日、43歳で没した(『小右記』長徳元年4月11日条)。

 同年4月27日、一条天皇は道隆の弟・玉置玲央が演じる右大臣藤原道兼を、新関白に任じた。道兼は伊周よりも上位であり、順当な継承であった。

 ところが、道兼も病に冒されており、同年5月8日、35歳で死去してしまう。

 この年、疫病により多くの貴族層が亡くなっており、上半期だけで関白、左大臣、右大臣、大納言、権大納言の8人のうち、6人が薨じている(山本淳子『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』)。

 政界の中枢部で生き残ったのは、内大臣の伊周と、権大納言の道長だけであった。