長徳の変で自滅?

 翌長徳2年(996)正月には、伊周と先帝・花山院がトラブルになり、弟の隆家に命じて、花山院に射かけたことにはじまる「長徳の変」が勃発した(樋口健太郎 栗山圭子編著『平安時代 天皇列伝』 高松百香「一条天皇——外戚の後宮政策に翻弄された優等生」)。

 この罪に、女院(詮子)を呪詛したなどの罪も加えられ、伊周は大宰府に左遷された。

 翌長徳3年(997)3月、特赦により帰京するも、権力の座につくとこはなく、寛弘7年(1010)正月、37歳で、道長よりも早く死去している。

 

光源氏のモデルの一人?

『栄花物語』巻第五「浦々の別」には、「御かたちとゝのほり、ふとり清げに、色合いまことに白くめでたし。かの光源氏もかくや有けむと見奉る」と記されており、伊周は優れた容貌の持ち主だったようである

 光源氏のモデルといわれる人物は何人かいるが、伊周もその一人である。