道長との後継者争い

 道兼の後継者は、一条天皇の叔父である道長と、中宮定子の兄である伊周の二人に絞られた。

 定子を寵愛する一条天皇は、伊周を推していたともいわれる(服藤早苗 東海林亜矢子『紫式部を創った王朝人たち――家族、主・同僚、ライバル』 西野悠紀子「第四章 藤原道長 ――紫式部と王朝文化のパトロン)。

 だが、一条天皇が選んだのは道長だった。

 一条天皇は道兼の死去から3日後の長徳元年5月11日、道長に内覧の宣旨を下している。

 これは一条天皇の生母で、道長の同母姉である詮子が、道長を強く推したからだといわれる。

 政権の座に就いた道長は、同年6月19日、右大臣に任じられ、伊周を超えた。

 以後、伊周と彼の弟の藤原隆家は、道長と対立を深めていく。

『小右記』には、伊周と道長が会議の席で激しく口論したこと(同年7月24日条)、道長と隆家の従者が七条大路で合戦となったこと(同年7月27日条)などが記されている。