マヤの“赤の女王”が蘇る!

《チャクモール像》マヤ文明、900〜1100年 チチェン・イツァ、ツォンパントリ出土 ユカタン地方人類学博物館 カントン宮殿蔵

 続いて、マヤ文明。マヤ地域では王あるいは王朝と呼べるものが前300年頃には形成されていたと考えられているが、地域全体が政治的に統一されることはなく、複数の王朝や都市が並立した。今回の展覧会では、洗練された彫刻や建築、碑文の多さで知られる都市「パレンケ」にスポットが当てられている。

「パレンケ」は古典期マヤの都市のひとつで、最盛期は615~683年。キニチ・ハナーブ・パカル王が治めた時代だといわれている。パカル王は12歳の頃に王位についたが、当時のパレンケは他国の侵攻を受けて荒廃。そこでパカル王は建築活動に力を注ぎ、王宮をマヤ地域で最も壮麗といわれるものに造り替えた。戦争や外交にも注力し、パレンケに黄金時代をもたらしたという。そんなパカル王は80歳で没。遺体は「碑文の神殿」の内部に納められた。

 1994年、パカル王が眠る「碑文の神殿」の隣、「13号神殿」にて新発見があった。神殿内部の石棺から鮮やかな赤の辰砂に覆われた女性の遺骨が見つかったのだ。発見時の状況から、付いた呼び名が“赤の女王”。その後の研究により、“赤の女王”はパカル王の妃で、次の王キニチ・カン・バフラムの母であるイシュ・ツァクブ・アハウと見られている。

《赤の女王のマスク・冠・首飾り》《赤の女王の頭飾り・胸飾り・腕飾り》《赤の女王のベルト飾り・足首飾り》マヤ文明、7世紀後半 バレンケ、13号神殿出土 パレンケ遺跡博物館蔵

 この“赤の女王”の遺骨とともに埋葬されていた《赤の女王のマスク》《頭飾り》《胸飾り》《ベルト飾り》などの装飾品が初来日。“赤の女王”をイメージした真っ赤なマネキンに添えられて展示されている。このマネキンがリアルで、まるで“赤の女王”が蘇ったかのよう。しかも展示空間は、墓室を模してデザイン。仄暗い部屋で“赤の女王”に謁見するその瞬間……。心がざわざわと震え、背筋に少しばかり冷たいモノを感じた。