物の重さの裏に命の重さがあるかもしれない
山末教授が注目するのは物の重量だ。
「銅は銅鉱石を掘るし、鉄は鉄鉱石を掘る。資源は掘って手に入れます。私は環境問題を研究していますが、興味があるのは、CO2排出量などよりむしろ、この掘る、というところです。」
ちなみに、対象は金属に限らない。たとえば牛肉は、1kgを得るのに必要な採掘量が、アルミニウム1kgの製造と同程度だという。牛を育てるには、燃料や飼料が必要だからだ。植物を育てるのにほぼ必須のリンなどは、枯渇が懸念される鉱物であり、掘って手に入れる。
「乗用車の車重は、およそ1台、1トンから1.5トンですよね。約1トンのクルマを造る場合、20トン程度は地球のどこかを掘ります。これは、従来のレシプロエンジン車の場合です。次世代自動車と呼ばれる、バッテリーEVやハイブリッド車の場合、 ニッケル系電池、リチウム系電池といろいろありますが、ハイブリッドで50から60トン、電気自動車で70トンから80トンくらいは掘っています。」
「この違いはなにかっていうと電池なんです。250kgの電池を造ろうとおもうと、およそその200倍、50トン程度を掘らないといけない。バッテリーだけでクルマ2台分くらい掘る必要があるんです。」
ちなみにここで山末教授が掘る、というのは、地表の使わない土であるとか、目的の鉱脈にたどり着くまでの竪穴を掘る際に出る諸々の物質が含まれる。
「では、このまま電動化が進んだ場合、どれだけ掘る必要があるか? 2000年対2050年でクルマの販売台数は4倍くらいになるといわれています。そして掘る量は10倍になる。2000年で年間10億トン程度が2050年は年間120億トン。120億トンというのは、それが、もしも東京都を掘ったとすると、地表が2.2メートル下がる量です。」
とはいえ、電気自動車は走行時の効率がいいから、長く走ればコンベンショナルな自動車と環境負荷が逆転するのではないか? と期待したくなるが……
「それを計算したのがこの図です。普通の自動車は最初に20トン程度掘る。あとは走行距離に応じて、リニアに採掘量が上がっていきます。燃費が良ければ、ラインはゆるやかな上昇になります。電気自動車はドンと最初に大量に掘る。その後の上昇ラインはゆるいのですが、10万km程度走るとバッテリー交換と言われているので、またドンと増える。そうすると再生可能エネルギーで走っていたとしても、10km/L程度の燃費のレシプロエンジン車と掘る量はあまり変わらないんです。」
しかもこの表で想定しているバッテリーは26.6kWh。一昔前といった電池容量だ。いまのEVだと、小さい電池でも40kWh程度。60kWhや80kWhもある。となるとバッテリー製造で掘る量は、この想定の倍以上に増えてしまう。こうなったらもうレシプロエンジン車には当分、追いつけない。
「低炭素のためだったら、いくらでも資源を使っていいという考え方を、私は『資源パラドックス』っていっています。地球を掘って何がいけないのか? というのにはたしかに明確なデータが出揃っていません。ただ、ニッケルを産出するニューカレドニア島は、固有の鳥や植物の宝庫で、そこの山をゴッソリ削ることは、生物多様性に影響しないでしょうか? ニッケルって地表から5m程度のところにしかなくて、フィリピンのパラワン島は、山の表面を削り取った結果、雨で土壌が流れ、サンゴ礁がなくなり、漁業が壊滅しています。コバルトはコンゴでしか採れませんが、それが原因で、紛争が起きたり、児童労働の問題が起きたりしています。」
ここで谷川教授が物の重さってわかりにくいんです、と補足する。
「例えばスマートフォンは200g弱です。でも、これを造るために、どこが何トン掘られているのか? そして、それは生命の重さかもしれないんです。」
「問題は……」とふたたび山末教授「CO2のデータは非常に詳細にあるのに、掘る量については、データがほとんどない、ということです。ゴミ問題でもそうですが、まず、総量を把握する。その後、そのゴミの中を見て、何がどう問題なのかを検討するわけです。」
資源採掘については、善悪を判断する段階にもまだ達していない。
直せる贅沢
詳細なデータは出揃っていないとしても、古いクルマを再生する、というのは、新しくバッテリーEVを造るよりも、地球を掘らなくて済み、それは結局、環境的負荷が少ないのではないか、 という説は、十分に成り立ちそうだ。
「もちろん、状況に拠るんです。バッテリーEVのほうが環境にいい場面もあるでしょう。たとえば、何十万kmと走るトラックだったら、EVのほうがいいかもしれない。ただ、これだけ多様性が叫ばれる世の中で、なぜ、クルマのソリューションはバッテリー一択なのか? そこの議論は十分とはおもえません。」
もちろん、クルマのレストアにも、環境的問題点があるかもしれない。
「だから、私は山末先生を連れて、ロードスターで広島の清金さんのところに通うわけです。」
と谷川教授が冗談めかして言ってから
「実際、研究室ではわからないことはまだまだたくさんあります。現場で、クルマのレストアをやっている清金さんからは教わることが多いんです。」
例えば、セイコー自動車でロードスターを完璧な状態にまでレストアしようとおもうと、素体となるクルマの状態によっては数百万円かかる、という、一大作業になることもある。そういう作業のなかで、大きな環境負荷が発生するということが、ないとはまだ言い切れない。
「ただ、それはすべてを完璧な状態にまで直す場合のことで、全部の機能の完璧な動作が、本当に必要なのか? とは考えてもいいとおもいます。」
と清金さんは言う。
「人間もそうですが、なんでもかんでも完璧を目指したらしんどくなる。旧車に限らず、新車にだって、あってもなくてもあまり影響しない機能だってあるんです。うちで直したクルマはあと10年は走るように、とおもって直していますが、急を要する問題とそうでない問題があります。急ぎでないなら、10年かけて、ちょっとずつ直していってもいい。そのうえで、直したところを楽しむ、不具合を楽しむ、そのストーリーを楽しむという付き合い方も、贅沢だとおもうんです。」
そして、こういうクルマを修理しながら乗り続ける、という付き合い方の是非を問うためにも、まだ、検証の時間は必要だ。だから、クルマの修理技術も10年、20年と、受け継がれていかなければならない。
「いまだと、オイル漏れが直せない、とか、クラッチをいじったことがない、などという人もいます。クルマを直す技術は伝えていきたい。そして、これは電気自動車にも来るんじゃないかな? 現在最新のEVが、20年後、30年後に、乗りたい、といったときに、きちんと直せるでしょうか? コンピュータ制御の自動車は、僕たちのような職人にとってはブラックボックスで、いじっても調子がよくなったりはしません。では、そのときそれは誰がやるのでしょうか?」
内燃機関を含め、自動車の基礎をなす機械技術は、100年以上の年月をかけて練磨され、今日のレベルにまで到達した。例えガソリンが環境的に正しくなく、使われなくなったとしても、それをもってして、内燃機関がまったく不要にはならないように、機械技術が人類にとって、突如として無価値なものにはならないだろう。だから、これをいま慌てて捨てようとすること、あるいはブラックボックス化して、不調を直せないようなものにしてしまうことが、社会的、文化的に、本当に正しいことなのか?
古いクルマを廃棄し、新しいEVに置き換える前に、手段の多様性を問う価値は、まだ十分にありはしないだろうか?