悲しみの尼将軍

鶴岡八幡宮 写真=アフロ

 実際の幕政を主導したのは義時だといわれるが、政子は将軍の代行といえる地位にあった。

 尼将軍としての活躍で有名なのは、なんといっても、「承久の乱」における「北条政子の名演説」だろう。

 承久3年(1221)5月、後鳥羽上皇が義時追討の官宣旨を下すと、政子は朝廷との戦に動揺する御家人らを前に、頼朝の恩義を説き、結束を呼びかけた。集まった御家人たちは感動の涙を流し、命を捨てて恩に報いる決意をしたという。

 この承久の乱から3年後に、政子はまた大事な家族との死別を経験している。貞応3年(1224)6月13日、政子とともに幕府を支えてきた弟の義時が、急死したのだ。

 義時の没後、義時の後妻・伊賀の方とその一族が、義時の嫡子・北条泰時の家督継承に反対し、伊賀の方の娘婿の一条実雅(さねまさ)を鎌倉殿に擁立し、息子の政村を執権職に就けようと企んでいるとの風聞が流れた。

 政子は、この「伊賀氏事件」と呼ばれる陰謀を未然に阻止し、翌喜録元年(1225)7月11日、病により69歳で、その波乱に満ちた生涯を終えた。

『吾妻鏡』の同日条は、「この方は、前将軍(頼朝)の寡婦であり、二代の将軍(頼家、実朝)の母である。前漢の呂后(高祖(劉邦)の皇后)と同じく、この国の政務を執行された。もしかしたら、神功皇后(『古事記』と『日本書紀』などにみえる仲哀天皇の皇后)がこの方に転生して、我が国の根本をお守りになられたのではないだろうか」と記し、政子の執政を誉め称えている。

 政子は生前、「従二位」に叙されており、公卿相当の身分も得ていた。

 輝かしい人生を送った政子であるが、それは彼女が求めていたものだろうか。

『承久戦(じょうきゅういくさ)物語』(『承久記』の異本)によれば、政子は承久の乱に際して、「私ほど悲しい思いをした者はいない」と嘆き、夫や子供たちに次々と先立たれた悲しみを語り、「いかなる龍瀬にも身を投げて空しくならん」と心情を打ち明けたという。

 政子が望んだのは、夫や子供たちと健やかに生きる――そんな人生だったのかもしれない。

 

北条政子ゆかりの地

●蛭ヶ島公園

 頼朝の配流地には諸説ある。静岡県伊豆の国市四日町の「蛭ヶ島」も、候補地の一つである。

 現在は蛭ヶ島公園として整備されており、園内には茶屋や、県指定有形文化財「旧上野家住宅」などがある。平成16年(2004)には、政子と頼朝のブロンズ像が除幕された。「蛭ヶ島の夫婦(ふたり)」と名付けられた二人の像は、富士山に向かって寄り添っている。

 政子は、頼朝と結ばれて幸せだったのだろうか。答えは政子本人にしかわからないが、蛭ヶ島公園の二人の像は、今日も睦まじげに寄り添い、ともに富士山を仰いでいる。