政子、将軍御台所に

伊豆山神社 写真=アフロ

 治承4年(1180)8月17日、頼朝が挙兵すると、政子は伊豆山神社の文陽房覚淵(もんようぼうかくえん)の僧坊に避難した。

 石橋山での大敗北後、奇跡の復活を遂げた頼朝軍が鎌倉入りを果たすと、政子も10月11日に鎌倉に入った。この時から、将軍御台所としての政子の人生がスタートする。政子24歳のときのことである。

『吾妻鏡』には、幕府の公式なセレモニーである鶴岡八幡宮などの寺社で行われる神仏事に、頼朝とともに参詣する姿がたびたび描かれている。

 御台所にとって最重要の役目は、後継者の出産であろう。

 政子は頼朝が挙兵する前の治承2年(1178)頃に、長女の大姫を出産している。

 鎌倉入りしてからは、頼朝の浮気に悩まされながらも、寿永元年(1182)には二代将軍となる長男の頼家、文治2年(1186)には次女の三幡(さんまん)、建久3年(1192)には三代将軍となる実朝を産み、4人の子どもに恵まれた。

 ところが、長女の大姫は、建久8年(1197)7月、20歳の若さで死去してしまう。政子はショックを受けたであろうが、これは苦難の始まりでしかなかった。

 大姫の死から2年後、政子は夫も失うことになる。正治元年(1199)正月、頼朝が53歳で急死したのだ。政子は43歳になっていた。

尼御台所から尼将軍へ

 頼朝が没すると、政子は当時の慣習に倣って出家し、尼となった。この時代の政子は「尼御台所」と呼ばれる。

 鎌倉殿の地位は、頼朝の長男・頼家が引き継いだ。頼家は18歳とまだ若く、政子は頼朝の後家にして、将軍の母という立場から、幕府の政治に関わることもあったという。

 やがて、かつて頼朝の下で内乱をともに戦った有力御家人たちは、血で血を洗う抗争を繰り広げていく。政子は義時とともに、この御家人たちの抗争に勝利を収めるが、それはまた別の機会に述べよう。

 頼朝の死から半年後、政子はもう一人、家族を失っている。同年6月30日に、次女の乙姫も14歳で病死したのだ。『吾妻鏡』の同日条には、記しきれないほど政子は嘆き、諸人は悲嘆したとある。

 残る子どもは息子2人となったが、政子は彼らにも先立たれることとなる。二代将軍・頼家は23歳で、三代将軍となった次男の実朝は28歳で、それぞれ惨殺されてしまうのだ。

 実朝には子どもがいなかったため、幕府は、京から摂関家の九条道家の三男・三寅(みとら/のちの九条頼経)を次期将軍に迎えた。

 当時、三寅は僅か2歳の幼児であった。当然のことながら、政治の行える年齢ではない。そのため、政子が簾中で政務を後見したという(『吾妻鏡』承久元年(1219)7月19日条)。俗にいう「尼将軍」の誕生である。