文=藤田令伊 写真提供=田中一村記念美術館

田中一村記念美術館 第2展示室

50歳で奄美大島に移住

 田中一村(いっそん)(1908-1977)という画家をご存じだろうか。最近はさまざまなメディアに取り上げられることもあり、かなり知られてきたかと思うが、他方、とくに美術に関心があるとかではない場合、まだまだ知らない人も多いかもしれない。

 田中一村は、「日本のゴーギャン」の異名を持つ人物である。どうして「日本のゴーギャン」といわれることがあるかというと、ゴーギャンがタヒチに移住したように、一村も奄美大島に移り住み、そこで生涯を終えたからである。

 一村が奄美に向かったのには、いささか求道的な理由があった。

 幼い頃より絵の神童といわれ、18歳のとき東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学(同期に東山魁夷らがいる)。が、わずか二カ月で中退したのちは、中央画壇とは一線を画して自らの絵を追い求め続けた。しかし、「悔のなき作」として満を持して展覧会に出品した絵が落選するなど、納得のいく成果を見出すことができず、ついには1958年、50歳を過ぎてから単身、奄美へと渡ることを決意した。

 その際、一村は家を売り払い、描き溜めていた絵やスケッチブックを数日間かけて焼却したという。まさに背水の陣を敷いての移住だった。なお、当時まだ沖縄は日本に返還されておらず、奄美は日本最南端の地、つまりは最果てであった。

鹿児島県奄美パーク内にある田中一村記念美術館

絵に賭けた一村の想いが伝わる作品

 奄美での一村の生活もまた求道的なものだった。大島紬の染色工として働いて生計を立てながら、絵を描き続けた。とはいえ、絵の具を買うお金もままならず、お金が貯まっては絵を描き、なくなったらまた染色工場で働くという苦しい暮らしぶりで、ひたすらに絵のみに打ち込んだ姿はさながら修行僧のようだったという。

 だが、苦労の甲斐あって、一村は奄美で自分の絵を見出していく。南国の色鮮やかな動植物や魚介類をモチーフに得たことで、一村の芸術は見事に開花するのだ。

美術館は奄美大島の海をイメージしてつくられた池の上に高倉を模した展示室が建ち並ぶ