文=鈴木文彦
ブドウなくしてワインなし
日本酒は水・米・酵母から造られますが、ワインはブドウから造られます。もちろん、ワインでも人間が培養した酵母を使うことがありますが、水にあたるのはブドウの果汁、米にあたるのはブドウがもつ糖質、酵母は果皮に付着したものや蔵に生息するものを使うのであれば、ブドウだけで、ワインを造ることができます。
つまり、ブドウなくしてワインなし。日本ワインの定義では、ブドウは日本で育ったものを使う必要があります。ブドウなんて、現在ではありふれた果物、とおもうかもしれませんが、実はこれにはワインが関係しています。というのも明治時代以前では、ブドウは日本では、そんなにメジャーな果物ではなかったからです。
日本にはどうやら奈良時代にはブドウがあったようです。それがどんな品種なのかはわかりませんが、現在でも日本ワインに使われることで有名な甲州というブドウはかなり昔からあった品種で、奈良時代から平安時代のどこかで、ヨーロッパからシルクロードをとおって日本にやってきた、といわれています。
発見され、栽培されていた場所が山梨の勝沼だったことから、おそらく甲州と呼ばれているのだとおもいますが、日本でもっとも古くから栽培されているブドウ品種のひとつだとおもわれます。
ブドウからお酒を造ることはなかった日本
日本人はしかし、ブドウからお酒を造ることはなかったようです。日本には豊かな飲み水がありますし、日本酒もあるので、わざわざブドウ果汁をお酒にして保存する、という発想がなかったのでしょう。ブドウは、甘い果物として食べていました。そして日本はブドウ栽培にそれほど向いた土地ではなく、一部地域をのぞいて、ブドウはそれほどポピュラーな果物ではなかったようです。
日本でブドウ栽培が活性化したのは、明治時代以降。近代化、殖産興業の一環として、日本でもワインを造ろうと、明治政府が奨励したのがきっかけです。
このブドウ、ワインの世界では、ヴィティス・ヴィニフェラとヴィティス・ラブルスカという二種類に大別します。
ヴィティス・ヴィニフェラは、粒の小さな実がなり、糖度も酸度も高く、皮が厚く種が多いブドウです。香りの成分が多く、ワインに向いた品種はこちらだ、とされています。カベルネ・ソーヴィニヨン、ピノ・ノワール、シャルドネといった、ワインで有名なブドウはこちらのグループです。
一方で、アメリカ大陸に自生していたとされるのがヴィティス・ラブルスカです。こちらは、どちらかというと、そのまま食べるブドウになることが多い、とされています。
ワインが造りたかったので、日本はヨーロッパのブドウ、ヴィティス・ヴィニフェラを輸入したのですが、世界的に見てワインの銘醸地というのは、涼しくて乾燥しています。ヨーロッパのブドウ品種はこういう環境を好む植物で、高温多湿な日本には向いていませんでした。
一方、アメリカから輸入したヴィティス・ラブルスカと、それに野生種やヴィニフェラをかけ合わせた品種には、日本の気候に合うものがありました。しかし、ラブルスカでワインを造ると、フォクシーフレーバー(狐臭)と呼ばれる香りが出る場合が多く、これが理由で、なかなか、望んだワインにはならず、そうこうしているうちに、日本ではブドウはそのまま食べる果物として、むしろ普及していきます。
特にメジャーな品種がデラウェアとキャンベル・アーリーだったといわれていますが、いずれも、大別するとラブルスカに属します。デラウェアは今も好かれている品種です。キャンベル・アーリーは、いまはほとんど見かけませんが、巨峰やピオーネの起源です。
このキャンベル・アーリーを日本に持ち込んだ人物が、今回話題にしたい、日本ワインブドウの父、川上善兵衛です。
日本のブドウへと至る途方も無い努力
山梨県で様々なブドウ栽培、ワイン造りの試みがなされていたのと同時代、連載の第2回で紹介した宮崎光太郎と同じ時期に、新潟県でやはり、ワイン造りに情熱を捧げたのが川上善兵衛です。
川上善兵衛は、日本の気候に適したブドウを栽培するために、
新潟県南西部、高田平野の大地主の長男だった川上善兵衛は、
そして、勝海舟との付き合いのなかで、
川上善兵衛は、ブドウの苗木を何百種類も輸入し、30年間、栽培を試みます。しかし、海外のブドウは、あまりうまく日本に馴染まなかったようです。理由は先述のとおり。欧州のヴィニフェラは日本の気候に合わず、ラブルスカは日本人が好むような味にならない、というのを川上善兵衛は実際に確認したのです。
ちなみに、川上善兵衛が試したところによると、気候が合わない理由は、温度や日照ではなく、降雨量だったそうです。これは、現在でもブドウ栽培の問題ですが、果実がなっている状態、特に収穫期付近に多量の雨が降ると、ブドウの果実は水を吸って膨らみ、果皮を破ってしまい、そこから腐り始めてしまうのです。
1万回以上の交配の末、生み出された品種
ならば、と日本の環境に適したブドウを交配によって生み出そう、と川上善兵衛は考えます。このときすでに53歳。それから交配した回数は実に1万回以上。そして、実をつけたブドウは約1100種類だったそうです。
これは、とんでもない苦労だったはずです。ブドウは実をつけるまでに3、4年かかります。そしてそのブドウが美味しいのかどうかを確認できるまでには、実をつけてからさらに5、6年。それでよさそうだとおもった品種をある程度の数、試験栽培しはじめて、3、4年後に実がついて、試験醸造。川上善兵衛は、醸造したワインを3年分は造って判断する、という作業を繰り返しました。
この連載の第1回で、年々、日本ワインの品質が向上するは驚異的といいましたが、ブドウ栽培にはとにかく時間がかかります。ワインの質を向上させるため、30年、40年といった計画で畑の改造に乗り出すワイナリーも珍しくないほどです。
そして、時間とともにお金もかかります。実際、川上善兵衛もいくら大地主とはいえ資金繰りに窮しました。そして、このとき、川上善兵衛の活動を評価し、救いの手を差し伸べたのが、サントリーの創業者、鳥井信治郎です。川上善兵衛のブドウ園、現在はワイナリーでもある「岩の原葡萄園」は、サントリーのグループ会社です。
かくして資金の問題に一応の解決をみた川上善兵衛は、ブドウの交配に打ち込み、22品種の優良な品種を登録しました。このうち、現在も日本ワインでよく見かけるのが、マスカット・ベーリーAとブラック・クイーンです。
マスカット・ベーリーAは、交配されたのが1927年で、実を結んだのが1931年だそうで、おそらく、そこから、試験栽培、結実、醸造とやって10年後くらいにようやく、これはいける、と判断したのだとおもわれます。川上善兵衛は自らの生み出したブドウの苗木を、実験用、見本といった形で、研究家や果樹園に配ったそうで、結果的に、マスカット・ベーリーAは、現在、日本全国で栽培されています。
ちなみに、マスカット・ベーリーはベーリー(Bailer)というブドウとマスカット・ハンブルグ(Muscat Humburgh)というブドウの掛け合わせで、Aの2年後に、Bも誕生したそうです。現在、マスカット・ベーリーBのワインを見かけないのは、Bのほうは現存していないからで、川上善兵衛の22品種は、すべてが、いまも生き続けているわけではありません。
マスカット・ベーリーAのワイン
この連載の初回でも紹介しているとおり、マスカット・ベーリーAは、独特のストロベリージャムのような甘い香りをもっています。また、一般的にはタンニンが少なく、ライトボディとかミディアムボディと呼ばれる、あまり濃厚ではない赤ワインが造られます。ただ、このブドウは本当に日本全国で育てられ、さまざまな生産者によってワインにされているので、造り手の個性が出る品種です。ストロベリーの香りが感じられず、美しいタンニンを含んだ、えっ、これがマスカット・ベーリーA?と驚くワインに出会うこともあるかとおもいます。
また、筆者は、マスカット・ベーリーAのロゼワインも、大好きです。
赤ワインを造るときには、ブドウを潰し、果汁を絞るのですが、皮、種、場合によっては茎を果汁と一緒に漬け込むことで、皮や種から、赤い色や、タンニンと呼ばれるポリフェノールを液体につけます。
この、ブドウを絞るときに、ジュースをちょっと別の容器にいれるなどして減らすと、すべての果汁を使った場合よりも、果汁に対する皮や種と割合が増えて、ワインを濃くすることができます。そして、このときに抜いた果汁をそれはそれで発酵させると、ちょっと赤い色のついた、ロゼワインができます。
こういうロゼワインの造り方をセニエ法といいます。また、これに近い方法で、赤ワインの発酵を始めてすぐ、発酵槽の上澄みの果汁をとって、これはこれでワインにすることでロゼワインを造ることもあります。こちらの方法も、一般的にはセニエ法と呼ばれます。
マスカット・ベーリーAは、あまり濃厚なワインにはなりにくいので、果汁の分量を醸造時に調整し、その果汁から副産物的にロゼワインも造る造り手は少なからずいて、マスカット・ベーリーAのセニエというロゼワインを見かけることは、わりと多いのではないかとおもいます。筆者はこれが好きです。
カジュアルで、マスカット・ベーリーAのストロベリー的な香りが漂う場合が多く、うっすらとピンク色のルックスも含めて、とてもチャーミングで個性的なワインだとおもいます。シチュエーションや料理との相性をあまり選ばず、価格もそれほど高くないので、常に一本ストックしているとなにかと万能でもあります。せっかく日本にいるのであれば、ベーリーAのセニエ、ついででよいので試してみて欲しくおもいます。