文=鷹橋 忍
オーストリアを代表する姉妹城
暑い日が続き、熱中症対策に水分のみならず、塩分の補給も心がけている方も多いだろう。
というわけで、今回は塩の交易で古代より繁栄し、ドイツ語で「塩の砦」を意味するザルツブルク(オーストリア)の「ホーエンザルツブルク城」と、ザルツブルク近郊に聳える「ホーエンヴェルフェン城」の、二つの城をご紹介しよう。
どちらも城名に「ホーエン」を冠するが、ホーエンとはドイツ語で「高い」という意味である。その名の通り、どちらも眼下に絶景が広がる名城だ。
まずは、ホーエンヴェルフェン城からみていこう。
こちらはザルツブルクから南へ約40km、山脈に囲まれたザルツァッハ渓谷にある街・ヴェルフェンの、高さ623メートルの絶壁の上にそそり立つ天空の城だ。1077年、ザルツブルクを守るために建てられた。
映像映えする城であり、近年では、クリント・イーストウッド主演の『荒鷲の要塞』のロケ地となっている。だが、この城で最も特筆すべきは、1965年制作の『サウンド・オブ・ミュージック』に登場したことだろう。ヒロインのマリアが、ギターを手に『ドレミの歌』を子供たちに教える有名なシーンの背景には、ホーエンヴェルフェン城の雄大な姿が映っている。
五つのオスカー賞に輝くなど、『サウンド・オブ・ミュージック』の大ヒットにより、ザルツブルク一帯の観光客は激増した。
だが、当時のオーストリアの人々には、地理的な面など事実と違う点があること、また、思い出したくない第二次世界大戦を主題にしていることなどから、この映画の人気は謎であり、お気に入りというわけではなかったという。(『ザルツブルク 町の肖像』 ダイアナ・バーグウィン著 高藤直樹訳)
ホーエンヴェルフェン城と同時期に、同一人物に建てられ、「姉妹城」と呼ばれるのが、ザルツブルクのランドマーク「ホーエンザルツブルク城」である。
中世の要塞、ホーエンザルツブルク城
ホーエンザルツブルク城は、ザルツブルク市街の岩山の頂に、どっしりと聳える中世の要塞だ。アルプスの山々を背後に従え、眼下にはザルツブルク市街と、まさに絶景が堪能できる城である。「ザルツブルク市街の歴史地区」として、1996年に世界遺産(文化遺産)に登録されている。
1077年に、この城を建てたのはホーエンヴェルフェン城と同じく、ザルツブルク大司教ゲープハルだ。この時代のザルツブルクは大司教区(大司教が治める地域)であり、ザルツブルク大司教は、高位聖職者であると同時に、、世俗の王侯に劣らぬ政治および軍事の権利を有し、広大なザルツブルク大司教領の頂点に立つ「君主」でもあった。
なぜ、大司教に城が必要だったのか。
その理由は、ローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝の闘争および、1077年に起きたかの有名な「カノッサの屈辱」にある。
「カノッサの屈辱」とは、ローマ教皇グレゴリウス7世と対立し、破門を宣告された神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世が、雪の中、教皇が滞在する北イタリアのカノッサ城の前に、3日間立ちつくして許しを請い、ようやく許された事件だ。
大司教ゲプハルトは、この一連の闘争で教皇に味方していたが、ドイツの多くの有力な諸侯は皇帝側についていた。そのため、皇帝側が報復してきた際の隠れ屋として、ホーエンザルツブルク城を造ったといわれる。
難攻不落の要塞、ナポレオンに無血開城
建設当初はロマネスク様式の居館にすぎなかったホーエンザルツブルク城だが、内外部の敵を恐れる歴代の大司教によって増築、軍備強化が重ねられた。15世紀までには、塔、武器庫を有する鉄壁の要塞となり、大砲の発達にともない17世紀初めには、外郭に大規模な堡塁をめぐらせている。
その威風堂々たる姿に恐れをなしたのか、最後で最大の宗教戦争といわれる「三十年戦争(1618~1648)」の際、スウェーデン国王グスタフ・アドルフ麾下の猛将たちは、ホーエンザルツブルク城をひと目見るなり、撤収したと伝わる。
攻城戦に関して真偽はともかく、ユーモラスな逸話が残っている。
ホーエンザルツブルク城が包囲され、兵糧攻めにあったときのことだ。城内に牛は、だた一頭しか残っていなかった。
その最後の一頭の牛を、毎日、色を塗替えて高台で引き回し、牛が何頭もいるように見せかける――を敵が包囲を解くまで繰り返した。以来、ホーエンザルツブルク城は、「牛洗いの城」の異名をもったという。(池内紀著『ザルツブルク 祝祭都市の光と影』)
築城以来、700年以上もの間、難攻不落の要塞であり続けたホーエンザルツブルク城だが、ナポレオン戦争によって、ただの一度も敵兵の侵入を許さぬまま、敵の手に渡ることになる。1800年12月、フランス軍がザルツブルクに入ると、戦うことなく、ホーエンザルツブルク城は開城されたのだ。その後、ザルツブルクは世俗化され、ザルツブルクの大司教も、高位聖職者という本来の姿に戻った。
城壁のレリーフの人物の正体は?
最後に、1495年に大司教となったレオンハルトをご紹介しよう。
ホーエンザルツブルク城の内部を今見られるような絢爛豪華にものに作り上げたのは、この大司教レオンハルトだ。特に「黄金の小部屋」のゴシック様式の暖炉は有名で、この城の大きな見どころとなっている。城の敷地内に「ゲオルク教会」を建設したのも、彼である。
そのゲオルク教会の外壁に、大司教レオンハルトはレリーフとなって、今もその姿をとどめている。
とはいっても、彼が城を守った英雄だとか、領民に愛された名君だとか、そういった美談が残っているわけではない。むしろ「重い税をかけて領民を苦しめた」、「対立していたザルツブルク市長らを和睦を装って城に招待し、処刑しようとした」など、あまり芳しくない話が伝わっている。
では、なぜ、大司教レオンハルトは、ホーエンザルツブルク城で、レリーフとなっているのか。
その理由は、彼の「幻視」にある。
山之内克子著『物語 オーストリアの歴史』によれば、大司教レオンハルトは、自分の体がザルツブルクの空中に浮かび、天空から祝福を与えるという幻視にとらわれた。これが発端となって、彼自身の命により制作されたという。
また同書によると、生前の大司教レオンハルトは大司教館よりもホーエンザルツブルク城を好み、ほとんどの時間を城で過ごしたという。彼はホーエンザルツブルク城を、もっとも愛した大司教なのかもしれない。
レリーフに姿を変えた大司教レオンハルトは、コロナ禍が収まり、彼が愛したホーエンザルツブルク城に、再び世界中から観光客が集まる日を、今も待ち続けている。