文=鷹橋 忍
『ドラキュラ』の作者は、一度も訪れていなかった
蒸し暑い日が続くので、まだ時期的には少し早いが、夏につきもののホラー作品の主人公ゆかりの城をご紹介しよう。今回取り上げるのは、ルーマニアのブラン城だ。
ルーマニアといえば、ドラキュラが真っ先に思い浮かぶ方も多いと思うが、その「ドラキュラの城」として知られるのが、このブラン城である。
ルーマニア北西部のトランシルヴァニアの地方のリゾート地・ブラシェフの郊外に建つブラン城は、アイルランドの作家ブラム・ストーカー (1847~1912)の怪奇小説『吸血鬼ドラキュラ』に登場する「ドラキュラ城」のモデルといわれる。
ブラン城の周辺には、ドラキュラ・ワイン、ドラキュラ人形など、ドラキュラ関連グッズを売るショップや屋台が建ち並び、ドラキュラとブラン城が、大きな経済的な支えになっているのがわかる。
鬱蒼と木々が茂る丘に聳え、薄暗い回廊と古い井戸のある中庭、人ひとりしか通れない狭い秘密の通路まで存在するブラン城は、確かにブラム・ストーカーが描くドラキュラの城を彷彿させる。
ブラム・ストーカーは、さぞかし念入りにブラン城を取材したのだろう、と思いきや、実は、彼はブラン城を一度も訪れていない。それどころか、ルーマニアにすら足を踏み入れたことがないのだ。
ブラム・ストーカーは43歳のころ、ロンドンを訪れていたブタペスト大学のヴァンヴリー教授と出会い、教授からトランシルヴァニアの吸血鬼伝説を聞き、小説『吸血鬼ドラキュラ』の着想を得たと伝わる。
ブラム・ストーカーが、ドラキュラ伯爵のモデルにしたのが、ワラキア公国のヴラド3世(1431~1476年)だ。
ドラキュラ伯爵は、城に住んでいなかった?
ドラキュラ伯爵のモデルとなったヴラド3世は、実在の人物である。ドラクラ(英語ではドラキュラ)、あるいは、串刺し公(ツェペシュ)という物騒な別名で呼ばれ、ヴラド・ツェペシュとも称される。
ワラキア公国とは、その名のとおり、ルーマニア南部、南カルパティア山脈(トランシルバニア・アルプス)とドナウ川の間に広がるルーマニア平野に存在した公国(公の称号を持つ君主が統治する国)だ。ヴラド3世は、3度もワラキア公となった人物である。
ドラキュラ伯爵のモデルといっても、ヴラド3世がブラン城に住んでいたわけではない。
ブラン城は1377年、ドイツ騎士団がワラキア平原からブラショフに入ってくるオスマン帝国軍を発見し、食い止めるために建造したのが、始まりだと伝わる。
その後、主にハンガリー王に所有され、14世紀末に、ヴラド3世の祖父・ミルチャ老公(在位1386‐1418)が居城とした。ヴラド3世は、ブラン城に滞在した可能性はあるようだが、居住していたという確かな証拠は何もないという。ヴラド3世自身の城は、南カルパティアのアルジェシュ川沿いにあり、現在では廃墟になっている。
悪魔の子? それとも英雄?
ドラキュラ伯爵のモデルとなったヴラド3世とは、どのような人物だったのだろうか。
ヴラド3世は1431年頃、代々ワラキア公を継承する一族に生まれた。彼の父・ヴラド2世もワラキア公で、神聖ローマ帝国皇帝をはじめ24名で構成される「ドラゴン騎士団」の一員である。入団後、ヴラド2世はドラゴンの旗を掲げて戦ったことから、人々は彼を「ドラクル(ルーマニア語でドラゴン)」と呼ぶようになった。(清水正晴『《ドラキュラ公》 ヴラド・ツェペシュ』)
ヴラド3世の異名の一つ「ドラクラ」は、「小ドラゴン」、「ドラクルの子」という意味であり、ドラクルには、「悪魔」という意味も含まれていた。
ヴラド3世は13歳のとき、5歳の弟ラドゥとともに、ムラト2世の時代のオスマン帝国の人質となり、そこで育った。のちに「美男公」と呼ばれる眉目秀麗な弟はたいそう可愛がられたが、凶暴で反抗的なヴラド3世は、監視役からも恐れられたと伝わる。
1447年に父と兄が惨殺されると、ヴラド3世はオスマン帝国の支援を得て、ワラキア公となった。オスマン帝国側は、傀儡の君主となることを期待したという。しかし、ヴラド3世は反旗を翻し、オスマン帝国に激しい抵抗を示した。
ヴラド3世の最大の功績は、1462年に、オスマン帝国のスルタン、メフメト2世が直接指揮した大軍を、奇襲と焦土作戦によって撤退させたことだろう。
ヴラド3世はメフメト2世の侵攻のさいに、スルタンが派遣した使節団を串刺しにし、見せしめにしてさらした。メフメト2世はおぞましい光景を前に、戦意を喪失したと伝わる。
この串刺しをはじめ残虐な方法で、敵はもちろん自国の民まで、数え切れないほどの人間を処刑したという。串刺し公(ツェペシュ)と呼ばれるゆえんである。串刺し自体は、当時の東欧では珍しくなかったが、その数と残虐性は、他に類をみないものだったといわれる。
しかしルーマニアでは、ヴラド3世はオスマン帝国と果敢に戦い、祖国を守った英雄であり、ブラン城はドラキュラとの出会いを求めて、世界中から年間60万人近い観光客が訪れる、貴重な観光資源だ。ヴラド3世が「悪魔」なのか、「英雄」なのか、正解はないのかもしれない。
牙を針に代えて
最後に、現在のブラン城をご紹介しよう。
ブラン城は1920年、ル-マニア王妃マリアに譲渡された。これは当時ブラン城の所有権を持っていたブラショフ市が、王妃への感謝の印として、寄進したものである。王妃マリアはブラン城を改装し、伝統的な家具や装飾品で飾ったという(ルーマニア観光局Facebookより)
その後、産主義政権時代は政府の所有となったが、2006年、 ルーマニア王家の末裔に返還され、現在に至る。
そして、今年(2021年)5月の報道によれば、ブラン城に、新型コロナウイルスのワクチン接種会場が設けられ、接種するサービスが開始された。
ブラン城には、ドラキュラの牙を注射針に代えた横断幕が掲げられ、接種を終えた人には、「勇気と責任感」をたたえる証明書が贈られる。さらに、城内の中世の拷問道具などが無料で見学でき、「今後100年間の歓迎」が約束されるという。
ブラン城ではきっと、多くの人々の勇気と責任感がたたえられるに違いない。