文=鷹橋 忍

シャンポール城 写真=PantherMedia/イメージマート

フランス・ルネサンス様式の最高傑作

 ワクチン摂取も始まり、コロナ禍にも希望の光が見えてきたが、変異株の流行など、まだまだ不安の種は尽きない。今回は、そんな暗雲を振り払うような、豪華絢爛なお城をお届けしよう。とびきり陽気なフランス王・フランソワ1世(1494~1547年 在位1515〜1547年)が、国庫のすべてをつぎ込んだといわれるシャンボール城だ。

 シャンボール城は、第3回でご紹介したシュノンソー城と同じく、ロワール渓谷に佇む名城である。

 もともとはブロワ伯の城館であったのを、フランソワ1世が徹底的に改築したのが始まりだ。建設開始は1519年、完成はルイ14世の時代の1685年である。

 その総敷地面積は5500万平方m、建物は幅156m、奥行きは117mあり、ロワール渓谷にひしめく古城のなかで、最大である部屋の数は440、階段は約80、365本もの煙突を持つというのだから、その大きさが推し量れるだろう。

 大きさだけでなく、美しさも群を抜いている。四隅に円形の塔を配したシンメトリー、すなわち、左右対称の造りと、装飾の施された無数の尖塔と煙突が立ち並ぶ、その優美な姿は「フランス・ルネサンス様式の最高傑作」との呼び声も高い。

シャンボール城の装飾された屋根 写真=PIXTA

 天井や壁など、城のいたるところには、フランソワ1世の紋章であるサラマンダーの装飾が刻まれている。サラマンダーは「我は善なる火を燃え上がらせ、悪なる火を消し去る」という格言を象徴する、王家に相応しい動物なのだという。

 

レオナルド・ダ・ヴィンチと、シャンボール城の関係

 見どころの多いシャンボール城であるが、最大の目玉はなんといっても、「二重螺旋階段」だろう。

シャンボール城の二重螺旋階段 写真=PIXTA

 二重螺旋階段とは、城の中央に位置するランタン塔にある、精巧な透かし彫りがなされた螺旋階段だ。城の各階を繋ぐこの螺旋階段は、人と人がすれ違うことなく上り下りできるという、実に巧妙な設計がなされており観光客の人気を集めている。

 この手品のような二重螺旋階段を初め、シャンボール城の設計には、世界的名画『モナリザ』(または『ラ・ジョコンダ』)で知られるレオナルド・ダ・ビンチ(1452~1519年)の発想が多く取り入れられているといわれている。

 ダ・ヴィンチといえば、画家であり、彫刻家であり、科学者であり、技術者であり、哲学者でもある、イタリア・ルネサンスにおける「万能の人」(ウォーモ・ウニベルサーレ)として知られるが、イタリア人であるダ・ヴィンチが、なぜ、フランスのシャンボール城の設計に関わっていたとされるのか。

 実は、ダ・ヴィンチは1516年、64歳のときから、1519年に67歳で亡くなるまで、フランスで暮らしている。即位して間もないフランソワ1世が、ダ・ヴィンチを「王の最初の画家、建築家、技術者」としてフランスに招いたのだ。

 当時、ダ・ヴィンチはパトロンが亡くなるなど、イタリアで不遇の日々を送っており、20歳を過ぎたばかりの若きフランス王の招待に応じた。彼は『モナリザ』をはじめ、『聖アンナ』、『洗礼者ヨハネ』を携えてフランスを訪れ、フランソワ1世から提供されたロワール川沿いの都市アンポワーズのクルー館で、晩年を過ごした。

 フランソワ1世は、ダ・ヴィンチのもとを狩猟や散策の帰りに訪ねたり、自分の城に招いたりしたという。ダ・ヴィンチが息を引き取ったのは、フランソワ1世の腕の中だという言い伝えもあり、その場面は、フランス新古典主義の巨匠ドミニク・アングル作『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』などにも描かれた。言い伝えの真偽は別として、そうした逸話が生まれるほど、親しい間柄であったのだろう。

ドミニク・アングル《レオナルド・ダ・ヴィンチの死》1818年 フランス プティ・パレ美術館

 ダ・ヴィンチがシャンボール城の設計者だったという確たる証拠はないが、ダ・ヴィンチがフランソワ1世に、城の設計に関して何らかの知恵を貸したとしても、不思議はあるまい。

 

フランス・ルネサンスの父・フランソワ1世

 シャンボール城の築城者・フランソワ1世は、どのような国王だったのだろうか。彼の生涯を記した文献からは、陽気な偉丈夫で、建築好きで文化・芸術をこよなく愛し、気前が良くて、派手好き、女性が大好きな、豪快な人物像が浮かび上がってくる。

ジャン・クルーエ《フランソワ1世の肖像》1535年頃 フランス ルーブル美術館

 フランソワ1世は2歳で父を失っているが、母親のルイーズに溺愛され、姉のマグリットにも可愛がられ、愛情をたっぷり受けて、のびのびと育てられた。女性に囲まれ、愛されて育ったせいか、フランソワ1世は誰に対しても愛想が良く、オシャレで会話も楽しく、よく笑い、洗練された物腰の、魅力的な男性に成長した。

 その外見も目を惹くもので、彼は2m越えという、驚愕の長身であった。ルーヴル美術館に飾られる騎馬姿の肖像画では、馬が小さく感じられるが、それはフランソワ1世がとてつもなく大きいからであり、画家のデッサンの狂いではないという。(佐藤賢一『ヴァロア朝』)がっしりとした肩と、よく発達した上半身をもち、顔色は明るく、完璧な美男子ではないものの、実に堂々とした偉丈夫であったようだ。

 女性関係も華やかで、「アレクサンドロス大王は仕事のないときに女性に会うが、フランソワ1世は女性がいなくなると、仕事に出会う」と称された。フランソワ1世本人も、「女性のいない宮殿は、春なき一年であり、薔薇なき春である」と語っている。(ルネ・ゲルダン著 辻谷泰志訳『フランソワ1世――フランス・ルネサンスの王』)

女は心変わりするものだ。それを信じるのは愚か者」と、シャンボール城のステンドグラスに刻んだという逸話も有名だ。

 体以上に、心も伸びやかだった。気前がよく、ダ・ヴィンチを招いた際には、ダ・ヴィンチのみならず、弟子のメルツィに対しても、貴族の生れに釣り合う額の年金を惜しみなく与えたという。

 また建築マニアでもあり、シャンボール城だけでなく、フォンテーヌブロー宮殿やブロワ城、アンボワーズ城などの増改築も行っている。

 シャンボール城は1981年には世界遺産に単独登録され、2000年に「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」として、ブロワ城やアンボワーズ城を含む渓谷沿いを彩る数々の美しき古城と共に、登録範囲が拡大された。コロナ禍以前は、年間80万もの人々が訪れていたという。

 フランソワ1世は、ダ・ヴィンチ以外にも、イタリアから著名な文化人を何名も招聘し、芸術を厚く保護した。彼の力によって、イタリアで起こったルネサンスはフランスにもたらされた。フランソワ1世が「フランス・ルネサンスの父」と称されるゆえんである。

 さらに『モナリザ』を買い取ったのも、フランソワ1世だといわれる。現在も『モナリザ』は、ダ・ヴィンチの故郷イタリアではなく、ルーヴル美術館に飾られている。

 金遣いが豪快なフランソワ1世は借金を重ね、金策には苦労したが、フランスが芸術大国となる基礎を築いたといえよう。その効果は計り知れない。

 フランソワ1世はシャンボール城のごとく、体も心も功績も、人並み外れて大きい国王だった。