釘をほとんど使わない四階建ての木造建築
長野県北部、志賀高原の麓にある渋温泉は、1300年前に行基が発見したと伝わる歴史のいで湯。戦国時代には武田信玄の“隠し湯”として守られ、江戸時代には善光寺と群馬県草津温泉を結ぶ街道の宿場町として栄えた。
「歴史の宿 金具屋」は江戸時代中期、1758年(宝暦8年)の創業。松代藩の脇本陣として利用された。もとは鍛冶屋を営み、この名があるという。
石畳の温泉街を歩く誰もが立ち止まり、仰ぎ見るのが、金具屋の木造四階建ての宿泊棟「斉月楼(さいげつろう)」だ。威風堂々たる佇まいは圧巻。八間半(約15m)の杉の通し柱13本を立て、釘はほとんど使わず木の組み合わせで造られている。各階異なる意匠も見応えがある。宮崎駿監督のアニメ『千と千尋の神隠し』に登場する湯屋の、
9代目の西山和樹さんは、「斉月楼は昭和11年の建物です。当館6代目が宮大工とともに全国の名建築を見て歩き、最高の旅館建築を目指しました。昭和2年に長野電鉄の湯田中駅が開業して、『これからは観光旅館の時代』と考えたことが、斉月楼誕生のきっかけのようです」と説明する。
匠の技と遊び心で生まれた写真映えの個性空間
斉月楼は匠の技と遊び心がいっぱいで館内巡りが楽しい。まずロビー横の通路は庇のついた陳列棚が並び、提灯が灯り、天井は青く染められている。これは商店が並ぶ温泉街と暮れゆく空をイメージした演出だそうだ。
続く階段の踊り場では、窓枠と照明を利用して日本一の風景「富士山と月」を表現する。階段の手すりには、かつて水車に使われた部材をアクセントに再利用するなど個性的なデザインがあふれている。
「斉月楼」には6つの客室がある。庇が出ていて、廊下は露地に見立てられ、まるで建物の中に家があるような客室の造りだ。随所に遊郭、社寺、数寄屋、書院造りなどの要素が見られる。床の間や天井、窓の形、欄間のデザイン、銘木・珍木など見所満載で客室ごとに趣がある。宿泊棟は4棟で客室は全29室。それぞれ造りが異なる。
4つの自家源泉と8つの湯殿で湯巡り三昧の宿
金具屋は温泉も素晴らしい。4つの自家源泉を有し、館内8つの湯殿に源泉が掛け流しにされている。2つの大浴場と露天風呂、5つの貸切風呂で湯めぐりが堪能できる。
「浪漫風呂」は昭和25年築。戦後の洋風文化の流行を取り入れ、ローマの噴水を模した洋風の浴堂だ。地下3mの岩盤から染み出す自噴泉が満ちる。泉質はナトリウム・カルシウムー硫酸塩・塩化物泉。鉄分が多く微黄色。昔は湯の色から「泥の湯」と呼ばれていたという。天候などにより、鶯色、抹茶色、白濁など変化する色付き温泉が楽しめる。
鎌倉時代の建築を模してつくられた大浴場が「鎌倉風呂」。2つの源泉からの混合泉で、泉質はナトリウム・カルシウムー硫酸塩・塩化物泉。白い湯花が舞う、淡い乳白色の温泉は肌触りなめらかだ。
屋上に露天風呂「龍瑞(りゅうずい)」が男女別にある。空とつながるような開放的と広い湯船が魅力だ。こちらは含硫黄ーナトリウム・カルシウムー塩化物・硫酸塩泉。無色透明で弱アルカリ性の「美肌の湯」が満ちる。
銘木や自然石などの5つの貸し切り風呂もあり、滞在中は無料で利用できる。連泊してのんびりとくつろぎたい。
温泉療養と文化体験の場、金具屋の新しい試み
渋温泉はそぞろ歩きが楽しい温泉街だ。石畳の通りには旅館が軒を連ね、「9つの外湯」があり、味処などが点在する。浴衣と湯下駄で温泉情緒を満喫する若者や外国人旅行者が多く訪れていた。しかし新型コロナウィルス感染症の影響で、その風景が戻るのはまだ少し時間がかかりそうだ。
外出自粛が続く中で、西山さんは胸のうちを話す。
「“湯治”という言葉があるように、温泉宿は療養の場所。必要としているお客様がいらっしゃいます。それから温泉宿は、地域や日本文化など体験の場所でもあると思っています。コロナの影響で、人の往来自体を良くないものと閉ざされます。宿泊業において、お客様がお出かけになれない時に商売をしていくのは非常に難しいことですが、なにか方法はないかなと思っています」と。
そのひとつがVR(Virtual Reality、仮想現実)やAR(Augmented Reality、拡張現実)の可能性という。
「以前から動画で館内紹介を行っていまして、それを進化させてVR動画を作成し、日本に来られない海外のお客様も温泉宿に滞在しているような体験をしていただくことはできないか。手探りですが今できることを頑張っています。」
「温泉宿は療養と体験の場」。温泉旅行が当たり前でなくなった今、その有り難さに心底気づく日々。そろそろ温泉へ、ぜひ日本の名宿へ!