文=藤田令伊

フジヤマミュージアム

富士山の絵ばかりを集めた美術館

 富士山の作品ばかりが集められているユニークな美術館がある。山梨県富士吉田市の、その名もズバリ、フジヤマミュージアムだ。ここの所蔵品はすべて富士山が題材で、古今の名だたる画家たちが日本一の霊峰と向き合い、己の表現を尽くした作品がそろえられている。

 富士山という同一題材の作品ばかりなので、コレクションはあたかも作家同士が競い合っているかの如き興趣を湛えることになる。ある人はひたすら富士の美しさを伝えようとし、またある人は富士の神秘さに意識を集中しているようである。ひと口に「富士山の絵」といっても、人によって驚くほど多様で、見ていて興味が尽きない。

 

加山又造のただならぬ富士山

 そうした数ある富士の名品のなかでも筆者がとりわけ注目するのは、加山又造の《富岳》である。描かれている富士山は秀麗な姿を見せている。画面下方にかかる靄のなかから、雪をかぶった山頂部が顔を覗かしている。美しい日本画で、富士山らしい品も感じられるかと思う。

 だが、この絵はよくよく見ていくと、ただならぬ一枚であることがわかってくる。靄に隠されるかたちをとっているため不自然には感じないが、改めて考えれば、描かれているのは山頂のごく一部に過ぎず、ほかの部分はまったく描かれていない。つまり、山頂だけをトリミングしたようなもので、裾野まで伸びるコニーデが美しい山にしては、思い切った切り取り方である。

 それだけではない。その山頂部もどこかおかしい。雪を頂いた山容に細かい山襞が描かれているが、その細い襞の一本一本が赤と青に着色されており、しかも互いに細かく絡み合っている。赤と青の襞の描きようは執拗といってもいいくらいで、まるで動脈と静脈が入り交じった毛細血管かのようである。

 山襞に血管の連想を覚えるや否や、突如として、富士は別の相貌を見せ始める。無機質な岩石からなる物理的な存在から、血液が循環する有機的な生命体としてのありさまを出現させるのだ。つまり、「生命ある富士」。画家の筆は、富士をひとつの生命体として描くという、前代未聞の試みに果敢に挑んでいるのである。

 上記のことに気づいたとき、筆者は寒気を覚えるような衝撃を受けた。表面的には「美しい富士」が描かれているようでいて、その実、ここに表現されているのは情念を奥に秘め、美と畏怖の両方を見る者に感じさせる特異な霊峰の姿なのだ。画家の眼と心は、私たちにはなかなか感知できない富士の凄みある核心に迫っている。芸術とは何という可能性を秘めているのかと、しばし呆然とした記憶がある。

 

アートとは鑑賞者のなかで起こること

 ところで、以上述べてきた本作についての見方は、あくまでも筆者はそう見たという、ごく私的な見方である。「描かれているのは生命体としての富士山だ」などというと、なかには「そんなバカな!」と一笑に付す人もいるかもしれない。あるいは、「画家自身はそんな意図ではなかったのでは?」と疑問を抱く人もいるかもしれない。

 ここでひとつの質問をしてみたい。もし、「アート作品とは何か?」と尋ねられたら、あなたはどのように答えるだろうか。

 常識的には「絵画」や「彫刻」といった答えが浮かんできそうである。しかし、別の答えもある。そのひとつに「絵画や彫刻はアート作品を生み出すためのトリガーにすぎない」という答えがある。つまり、絵画や彫刻はアート作品そのものではなく、それを生み出すための狂言回しにすぎず、真のアート作品はもっと別のところにあるというのである。

 では、その別のアート作品とは何か? それは「鑑賞者のなかで起こること」である。通常、私たちは絵画や彫刻を見て、感嘆したり、感動したり、感激したり、いろんなことを考えたりしているが、そういう見た人のなかで起こる内的な体験こそが「作品」の本質だと捉える考え方があるのである。鑑賞者のなかで起こることなので、この考え方を発生主義といったりしている。

 しかも、その「作品」は作者の意図と違うものであっても全然構わない。むしろ、作者の意図を越えたところにアートの可能性が期待されるのである。現代アートでよくタイトルが「無題」となっているものを見かけるが、これなども鑑賞者に自由な見方をしてもらいたいがために作者があえて意味のあるタイトルを避けている場合がある。

 こうした立場を採ると、アートを見るに当たっては私的な見方のほうが望ましいということになる。というか、私的な見方がなされなければ何の意味もないことになる。

 アーティストたちは自分の作品として絵画や彫刻をつくっているが、われわれ見る側も自分の作品をつくるつもりで鑑賞を進めていけばよいのである。つまり、鑑賞とはわれわれにとっての「作品」なのである。

 ただし、ひとつ付け加えるとすれば、鑑賞というわれわれの作品づくりに当たっては、それを引き出してくれる絵画や彫刻には一定のリスペクトを持ちたいものである。