「応挙寺」と呼ばれる兵庫・大乗寺
このところ西洋のアートが続いていたので、今回は日本の美術に目を向けてみたい。
ピックアップするのは円山応挙の《龍門鯉魚図》である。本作が所蔵されているのは美術館ではない。兵庫県の日本海側、香住にある「亀居山 大乗寺」というお寺で、ここは別名「応挙寺」と呼ばれていて応挙の作品が多く残されている。なかでも白眉は、部屋の空間展開を考えて制作された障壁画群で、「立体曼荼羅」ともいわれる。寺全体で一つの作品と見ることもでき、いまはコロナのことがあるが、これはぜひ現地で体感してもらいたい。
「静」と「動」、対照的に描かれた鯉
さて、ここでは《龍門鯉魚図》。ご覧のように、二幅の絵軸が対になっており、うちひとつは比較的「ふつう」の絵である。一匹の鯉が泳いでいるところが描かれている。鯉のありさまは穏やかで、物静か。それは水面の水模様にも表れている。決して波立つようなものではなく、滑らかで、優雅といってもおかしくない風情が漂っている。
ところが、もう一方は対照的に「異常」な絵である。こちらは一見しただけでは何の絵かわからないかもしれない。墨で縦線が何本も勢いよく描かれていて、まるでバーコードか何かのようだ。だが、画面中央やや右寄りのバーコードには微妙に太い細いがあり、それが何を意味しているかわかった瞬間、見る者の脳裏には大きな驚きと衝撃が走る。
おわかりだろうか。これは、激しく流れ落ちる水流のなかを力強く遡上している鯉なのだ。応挙は鯉の姿を明確には描かず、示唆するだけであとは見る者の想像力に委ねる描画法を採用している。なんと斬新な発想かと、初めて見たとき、私は呆然と立ち尽くしてしまった。現代の画家でもこれほどクールで大胆な表現のできる人がいったいどれだけいるだろうか。
主題はいわゆる鯉の滝登りで、鯉は水のなかをまっすぐに遡ろうとしている。一般に鯉の滝登りの場面は鯉が激しく体をくねらせて水流に逆らおうとする様子で描かれるのだが、応挙の鯉はあたかも静止しているかのような姿である。それがかえって“特別な鯉”という印象をもたらしている。黄河の龍門の滝を登り切ることができた鯉は竜になるといわれていて、そこから「登竜門」という言葉が生まれている。
二幅の絵軸は、静と動、常識的と非常識というようにあらゆる点で対照的である。にもかかわらずというべきか、だからこそというべきか、このふたつは対にして見られることが念頭に置かれている。応挙は見る者に何を問おうとしたのだろうか。その答えもまた鑑賞者に委ねられていて、そういう意味では応挙は見る人間を信頼しているといえる。
ちなみに、応挙は《龍門鯉魚図》のほか《氷図》などでも同様の示唆的な描き方をしている(《氷図》は大英博物館の所蔵)。一般的常識的な表現に棹をさし、余人にはできない表現、自分が納得できる表現をどこまでも追求したのが応挙の真骨頂で、見ていてしびれるところだ。
「リアリズム」だけではない応挙
ところで、円山応挙について改めておさらいしておくと、応挙は江戸時代中期の京都の絵師で、のちに四条派が形成される祖となった人物である。やがては竹内栖鳳や上村松園を経て今日に至る日本美術の一角を確立した美術史上の画期ということができる。
応挙の芸術については、よく「写生を重視した親しみやすい画風」といった説明がなされる。これは、当時の主流派絵師軍団、狩野派を意識した評価で、フィクションの狩野派に対してリアリズムの応挙、権威の狩野派に対して庶民的な応挙というわけである。
――という説明を読んで、あなたは納得しただろうか。もし「なるほど」とうなずいてばかりいるようでは、あなたの見方にはいささか問題がある。
もう一度、《龍門鯉魚図》をよく見てほしい。この絵がほんとうに「写生を重視した親しみやすい」絵だろうか。ほんとうに鯉がこんなふうに滝登りをするだろうか。あるいは、この対照的な一対の絵は何を物語っているのだろうか。ほんとうに「親しみやすい」絵といえるだろうか。
私たちが美術作品について見聞きする解説は、あくまでも一般論である。応挙についての上記の解説も、応挙全般についていえることであって、それが個々の作品にも当てはまるかどうかは別問題である。
あるいは、その解説がほんとうに妥当かどうかということもある。書き手の考察が足りておらず、よくよく吟味したら的外れなことをいっているというケースは意外に少なくない。以前、尾形光琳の《紅白梅図屛風》について、日本美術の専門家たちがそろいもそろって見当外れなことを主張していたということも現実にあった。解説が常に正当とは限らない。
と考えたら、私たちは知り得た情報を鵜呑みにするのは危ない。自分の眼で見、自分の頭で考えて、ほんとうにそう思えるかどうかをいつも問い直すことが大切である。受け身ではなく能動的に。アート鑑賞は、そのように主体的なスキルを鍛えるトレーニングにもなるのである。