写真・文=橋口麻紀

ウイルスとの共存期間で迎えたイタリアの夏

 イタリアがコロナウイルスとの共存フェーズに入り約2カ月。太陽が毎日燦燦と降り注ぐ、本格的な夏の真っただ中のイタリアです。日中は、35℃を超える日も少なくないモデナ。もちろん、そんな中でもマスクは着用。日増しに、おしゃれなマスクを着用している人が多くなってきています。そのあたりは、置かれている状況で人生を愉しむことに長けているイタリア人ならでは、今までの生活には無縁だったマスクをも自分スタイルに取り込んでいます。

 今夏は、今までにはない景色になったのはイタリアも同様です。

 マスク着用やソーシャルディスタンスを守るなど、誰もが想像できなかった景色ですが、そんな中でもイタリア人とって何よりも大切なコト、ヴァカンツァ(夏休み)シーズンが無事に始まったことに、多くのイタリア人が安堵していることでしょう。たとえ、マスクをしながらでも!

 ロックダウン時、イタリアの合言葉であった“ANDRÀ TUTTO BENE!”(すべてうまく行く)が、少なからずとも、「ヴァカンツァに行ける!」ということで現実になったわけですから。

 約2カ月に渡って、イタリアに住み暮らすすべての人々が経験したロックダウン生活のそれぞれの頑張りの成果なのか、なぜかさまざまな問題があっても、なんとなくうまく行ってしまうのがイタリアのイタリアたる所以。まさに、ウイルスと共存をしているイタリア人なのです。

 ちなみに、イタリア全土での感染者数は、8月2日の時点で、238人と他のヨーロッパ諸国に比べると低い数字をキープしています。

 今年、ヴァカンツァをとることができたことは、まるでご褒美のようだと語っているミオ・マリート(私のだんなさま)から、ヴァカンツァがなぜ、これほどまでにイタリア人の人生において何よりも大切なコトなのかを探りだす、イタリア物語第5回目です。

イタリア人にとってのヴァカンツァは人生に欠かせない!

 イタリア人の多くが、ヴァカンツァはマーレ(海)で過ごしますが、ミオ・マリートも毎年マーレで過ごします。今年はヴァカンツァがとれないのでは、という一抹の不安が過った時期もあっただけに、喜びもひとしお。イタリア人は、毎年のことながらマーレで一日中、基本何もしないで過ごすのです。暑くなったら海で泳ぎ、そして休憩。太陽が真上に昇ればランチをたべて、そのあとはお昼寝。海やデッキでただおしゃべりをしながら、日焼けにいそしんでいるのも普通の光景です。

 もちろん、どこでも欠かせないのが「食」の話。マーレでは、多くのひとたちのランチの定番メニューがフリット・ミスト(魚介フライのミックス)です。ミオ・マリートも大人になってからは、フリット・ミストをたべるようになったようですが、子どものころはノンナ(祖母)が用意してくれたボンボローネ・アレ・クレーマ(クリームがはいったあげパン)とアクア(水)が定番だったようです。

 ランチ後、数時間は水にはいってはいけないという、マンマからの教えを今でも守っているミオ・マリートは、午後は4時以降にマーレに戻ります。この繰り返しです。ミオ・マリート含め、イタリア人は約3週間の大半をこのスタイルでヴァカンツァを過ごすのです。

 ミオ・マリートに、毎年聞いていることがあります。なぜ、ヴァカンツァにこんなにもチカラをいれるのかと。毎年2月くらいから、イタリア人はヴァカンツァの予定を立てはじめ、会社でのカフェタイムでも、夏の予定の話でもちきりなのですから。

 すると、必ずや「人生には欠かせないコト。小さなときから、穏やかな地中海やアドリア海に囲まれているイタリア人にとっては、当たりまえのことなんだよ」と返答。理解ができるようになるまで、はや12、3年が過ぎていることに驚きつつ、そして、今年もまたミオ・マリートに尋ねてみたのです。なぜ、このヴァカンツァが人生には欠かせないコトなのかと。

自分のアイデンティティを見つめなおす

 今年、ヴァカンツァがとれることは、まるでサプライズでボーナスをもらったようだよ。

 自分にとってヴァカンツァをとるのは、自分のアイデンティティを見つめなおすタイミングで大切なこと。何もしない、何も考えないのがヴァカンツァ。その時間を仕事のことも忘れ、自分自身のクリエイティビティに集中し、自分を癒すこと。自分を解放すること。これが出来るのがヴァカンツァ。というか「この時間があってこそ、また次へ進めるのだ」と。

 そして、この何もしないという習慣は、遡ることローマ時代から、OZIO(オッチオ)という言葉として存在していたと。直訳だと「怠惰」ですが、その時代、階級によっても違いがあったにせよ、それぞれの自由時間という意味のようです。Vacanzia(ヴァカンツァ)の言葉も、語源はラテン語でVuoto(ヴォート)からきているようで、意味は「空っぽ」です。ようは、何もしないということなのです。

 あらためてヴァカンツァについての思いを聞いて、いまさらながらイタリア人が慣習とはいいつつも、これほどまでにヴァカンツァを人生の中心に位置づけるのか、と感じ入りました。そして、日々の生活のなかで垣間見る事柄と照らし合わせると、いままでは「点」でみていたことが、「線」になったように腑に落ちました。イタリア人のライフスタイルは、自分が生きていくうえでのコトの優先順位が明確なのです。

 自分たちを究極に癒し、次のステップに行くためのヴァカンツァ。そのために一年間がんばって働く。納得がいくところです。イタリア人について思うのは、かなりシンプルに生きているというところ。そしてそれは、とても好きなポイントでもあります。感情表現もしかりですが。

 人生の究極の癒しのヴァカンツァが、この夏とれたイタリア。2カ月のロックダウンを乗り切れたのも、きっとこのヴァカンツァのために頑張られたからでしょう。

 特別な年になった今夏のヴァカンツァで培ったクリエイティビティを、これからもウイルスとの共存が続くなかで、ミオ・マリートがどのように発揮するのか、見続けていきたいと思っています。

 アドリア海に面したポルトヌオーヴォにて、ウイルスの終息を願いつつ──