文=鈴木文彦 写真=三田村優

この日、島地勝彦が着ていた赤いジャケットは、ナポリのサルトリア・アットリーニのもの。映画『グレート・ビューティー』を見て買おうとおもったという

しあわせになりたくば、えこひいきされよ

 未来の自分が何をしているのか、筆者にはわからないけれど、島地勝彦は30年ぐらいは、だいたい自分が何をしているか、わかっているらしい。だから、Autographも今後、30年くらい、島地勝彦の話を色々と聞いてみようとおもっている。

 島地勝彦とは何者か、という問への答えは、ひとによってちがうはずだ。

 『週刊プレイボーイ』を100万部の雑誌へと導いた伝説的編集長とか、そのプレイボーイを出版する集英社の重役だった人物とか、人生を語るエッセイストとか、シガー愛好家の親玉とか、あるいはバーマンとか。

 1941年4月7日生まれのこの男は、現在、現役バーマンだ。3月29日に、伊勢丹新宿店メンズ館の小さなバー「サロン ド シマジ」への最後の出勤を終え、4月7日に、西麻布の、公式にはこの日が開店日となる自分のバーで、仲間たちと誕生日を祝ってスパイシーハイボールで乾杯した。

 バーは、やっぱり「サロン ド シマジ」といって、島地勝彦は「人生最後の作品だ」と自慢する。天井までの高さが6mもある、妙に明るいバーだ。照明が理由というより、多分、雰囲気が明るいのだ。

 バーカウンターには7席しかない。7席しかないからといって、7人しか入れないわけではない。なにせこの7席のうち3席には、瀬戸内寂聴 先生御席、塩野七生 先生御席、堤 堯様御席、と書かれたプレートがついているからだ。空席は4席だ。しかもその4席も「これね、70歳以上」と、島地勝彦は言うのだった。

問題の3脚の予約席は写真のようになっている

 「70歳以下はこっち」

 筆者がカウンター席後ろのテーブルの脇に立つと、島地勝彦もおなじテーブルの反対側に立った。

 「あのね、ロンドンのね、パブとおなじです。ロンドンのパブじゃ、70でも80でも立ってるんだよ。日本だけだよ、バーで座ってるのは」

 と言ってから、「とんでもないよ」と続けた。それから「と、俺はおもう」とさらに続けた。

 「俺はずーと立ってるんだ。みんな立ってる」

 バーは立つものなのか? なぜ立つのか、と聞いてみると

 「俺はね、子供のときにね、いたずら坊主でさ。アナタ立ってなさい!ってしょっちゅう先生に言われて、廊下に立ってた。ひどい先生がいてさ、俺が立ってるの忘れて帰っちゃって、俺、夜中の8時半まで立ってた。そしたら迎えに来たんだ。ごめんなさいっていって。俺の親父も学校の先生してたからさ、お父さんには内緒にしてって。それで俺も黙ってたからさ、それからは立たされなかった」

 「俺はね、今日まで、人生は運と縁とえこひいきだってずっとおもってる。えこひいきしてもらえないと、しあわせになれない。俺は神様にえこひいきしてもらってるんだ」

廊下に立っていた小学生の話が、島地勝彦の人生論へと発展していくダイナミズムを邪魔したくなかったので本文には書かなかったけれど、バーでなぜ立つのか、という問いへの答えは、「立っているほうが酔わない」からだそうだ。「座ってると酔って眠るやつがいるんだ。だらしない」とのこと

島地勝彦のあたらしい書斎、できる。

 「なにせさ、俺は、3月29日で伊勢丹のサロン ド シマジを閉店したんだ。そういう契約だったからさ」

 そこでバーマンをやめる、という選択肢は考えなかったのか?

 「全然ないよ! 俺はさ、ピンチはチャンスとおもってる。バーマンやらなくなっちゃったら、急に生活かわるんだから、ピンチでしょ。人生の一部だから。しかもたった3坪だったのに、多いときは30人くらい来たんですよ」

 伊勢丹のサロン ド シマジを訪れる島地ファンの中に、この西麻布の物件の持ち主がいた。

 「ここはさ、石井さんっていう不動産をもっている社長さんが管理しているんだけれど、30年間、誰も使わない、スケルトンだったんだよ。そういう物件としてもっていた。その人が俺の本を見て、これは島地さんなら使えるなっておもって、8月ごろ伊勢丹にやってきたんだよ。それで、俺はここを見に来てさ。おおすげえなって気に入ったんだけど、ふたつ店を持つわけにはいかないから、じゃあ、伊勢丹のサロン ド シマジを閉店するときまで、ここが空いてたら入りますよって、俺は言ったんだ。それで11月ごろ石井社長に電話して、まだ空いてますっていうから契約した。それで今年1月から今日まで、家賃はらってたんだ」

 そのスケルトンを島地勝彦のバーにするまでには、途方も無い作業があって、島地勝彦は仕事場にしていたマンションを売った。それを買ったのが、3年間、島地勝彦の専属バトラーをしていて、西麻布のサロン ド シマジでもバーに立つ、水間 良雄だ。報酬は「島地さんのウイスキーが飲めることと、島地さんとの時間をともにできること」だという。

 「男の人生で素晴らしいのは心意気。その心意気で俺はいままで生きてるんだ」

 こうして自宅とバーをトレードした島地勝彦は、この縦長の難物件を自分の作品へと作り変えていった。

 「ここをデザインしてくれたのは、ヌーヴェルヴァーグっていう映画の美術をやる会社なの。いろんなバーにいってさ、すげえなあっておもうバーがみんなヌーヴェルヴァーグにお願いしたって。ヌーヴェルヴァーグがやったバーの第一号店がね、俺もよく行く新宿の「ル・パラン」。それで電話番号を教えてもらって、電話したの。そうしたらヌーヴェルヴァーグの赤石社長が出てきて「島地先生! 我々は先生のファンです」っていってくれたの。これが、えこひいき」

 

天井に太陽から光が降り注ぐフラスコ

30年の間、幾人もが高さがありすぎることで二の足を踏んだ空間は、天井にヌーヴェルヴァーグの杉本 亮デザイナーのひらめきから、雲の向こうの青空にある太陽から光が降り注ぐフラスコを描き、その下に、島地勝彦由来のものを配置することで完成した

 壁にあるものにはいちいち、島地勝彦とそのものとのストーリーがある。持ち主から永久貸与されている、という、横尾忠則、藤田嗣治、バスキアの絵。ツヴァイク、内田百閒、小林秀雄、バルザックにプルーストといった本は、島地勝彦の蔵書だ。そして、店内に、上品な音楽を流しているスピーカーは、岩手県一関市の伝説的ジャズ喫茶「ベイシー」のオーナー、菅原正二が、引退後に自宅用に、と買っていたものを、永久貸与されている、という。

 「永久貸与っていっても、返せないかもしれないよね。ここ、俺が死んでも100年ぐらいやってるかもしれないから」

 そのスピーカーの右チャンネルの下にあるダビドフの葉巻が入ったディスプレイは、湿度を自動調節するもので、デザイン段階から、ダビドフによって特別に造られたもの。おなじような仕掛けはジェネーヴとロンドンにしかないという。

ダビドフの特性ディスプレイケース。周囲に島地勝彦セレクトのシングルモルトがあり、直上に永久貸与のスピーカーの→チャンネルがある

 実はその右側の空間にひとつ、まだはまっていないピースがある。それは、抽選販売で購入権利を得た、山崎55年だ。これは、300万円もするうえに、山崎の魅力、思い出などを語る作文をサントリーに提出して、その出来栄えへの評価によって購入権利が得られるというもので、22万通の応募のなかで、シリアルナンバー1番を獲得したのは、島地勝彦である。およそ250本の島地勝彦厳選のシングルモルトとは別に、特別な「神棚」が与えられていて、6月にここに収まる予定だという。

 「みんなに俺が当たったっていったら、忖度ありでしょっていうんだ。困ったもんだよ、もう!俺が一番、作文が上手かったからだよ。俺が100歳になったときに、水間に飲んでもらうんだ」

 これもまた、心意気であり、えこひいきの倍返しなのだろう。

 

島地勝彦にとってバーとは?

 ヘミングウェイが「明るくてクリーンな場所」とカフェを言ったとき、その対称として出てくるのがバーだ。バーは一日の終わり、何かの終わりに訪れる場所、というイメージが筆者にはある。サロン ド シマジにあふれる明るい空気はしかし、そんな考えを改めさせるようなものだ。ここでは何かが終わるのではなく、何かが始まりそうだ。だから、島地勝彦にとってバーとは、とたずねると

 「バーのカウンターは人生の勉強机。俺もバーカウンターで勉強した。ここでは俺が知っている真実をみんなに教える。みんな俺になんでも相談してくれたらいい。そうしたら、じゃあバルザックの『ゴリオ爺さん』読め、とか、本のソムリエもする」

 「人生はさ、いつもFrom now on。これからなんだよ。始まったものはいつか終わるけど、それでも、From now onなんだ」

 かくして、ひとつの終わりのあとに始まった、西麻布の新「サロン ド シマジ」。開店翌日に非常事態宣言が出たので、即休業へと移行した。次回開店時は、また、新たな始まりの記念日となる。ここは始まりを運命づけられた場所なのだろう。

 そして、島地さんの話は、本人から聞くのが一番だけれど、しばらくはどうもそうもいかなさそうなので、冒頭でも言ったように、一部でよければ、ここautographでも今後、紹介していく。

 島地さんに色々、教えてもらおうじゃないか!

スピーカーは1960年代のEMI製。どんな音がするかは実際に聞きに行っていただきたい