1990年代後半、社内講話で厳しい表情を見せる稲盛
写真提供:京セラ(以下同)

 広報の仕事に手応えを感じ、充実した日々を送っていたさなか、思いもよらぬ転機が訪れる。稲盛和夫から突然「晩年の仕事を手伝え」と命じられ、秘書室への異動が決まったのだ。選ばれた者としての高揚感とは裏腹に、待っていたのは稲盛から「お前は分かっとらん」と叱責され続ける過酷な日々。理想と現実の落差に打ちのめされながら、筆者の自らの仕事観と向き合う時間が始まった――。

「晩年の仕事を手伝え」と、いきなり稲盛から命じられる

 稲盛和夫初の著書を企画制作した後、広報部に移り、意欲的に勤務していたところ、稲盛から直接指示を受け、秘書室に異動することになった。栄転と思いきや、稲盛から叱られ続ける、人生で最もつらい日々の始まりであった。しかし、奈落の底でのもがきが、その後、稲盛に長く仕える契機となった。

 もともと私は広報業務を志向していた。教育部にて稲盛最初の書籍刊行を担当した後、ご褒美のように希望がかなえられ、1990年、京セラ本社広報部に異動した。広報という仕事を天職と思い、精励した。特に1995年に東京の広報部へ異動後は、後に社長に就任する西口泰夫(当時専務)が統括した通信事業本部担当となり、さらに精力的に取り組んだ。

1990年代後半、稲盛和夫は新しいステージに立とうとしていた

 京セラの通信機器事業は、稲盛が築き上げた第二電電(現KDDI)との連携をもとに大きく発展していた。加えて、西口の人間的魅力もあり、一般紙から経済誌、業界紙誌、さらにはトレンド雑誌に至るまで、広範囲かつ高頻度の取材機会を設けることができた。工場見学会、ニュースレター発行など、従来にない取り組みも始め、京セラ通信機器部門のマスコミ露出度は極めて高かった。