後一条天皇が崩御した後の朝廷

 長元9年(1036)4月には後一条天皇が崩御し、後一条の同母弟・敦良親王が28歳で践祚し、後朱雀天皇となった。

 この年、頼通には、娘・寛子(のちの後冷泉天皇の皇后)が誕生しているが、すぐに後朱雀天皇に入内させられる娘はいなかった。

 そこで頼通は、敦康親王(一条天皇の第一皇子 母は高畑充希が演じた定子)の娘・嫄子女王を養女に迎え、翌長元10年(1037)に、後朱雀天皇の中宮に立てた。

 嫄子は祐子内親王と禖子内親王を産むが、皇子が誕生することのないまま、長暦3年(1039)、24歳で亡くなってしまう。

 そんななか、頼通の4歳年下の同母弟・藤原教通が娘の生子を後朱雀天皇に入内させたが、生子が皇子を授かることはなかった。

 寛徳2年(1045)正月、後朱雀天皇は21歳の第一皇子・親仁親王(母は、頼通の同母妹・藤原嬉子/嬉子は万寿2年(1025)に親仁を出産して数日後に死去)に譲位し、2日後に崩御した。

 親仁親王は践祚し、後冷泉天皇となった。

 後冷泉天皇の異母弟・尊仁親王(のちの後三条天皇)が、皇太弟に立てられた。

 尊仁親王の母は、木村達成が演じた三条天皇の皇女である禎子内親王だ。禎子内親王の母は、頼通の同母妹・倉沢杏菜が演じた姸子である。

 後冷泉天皇に、教通は永承2年(1047)に三女の歓子を、頼通も永承5年(1050)に15歳の長女・寛子を入内させた。

 だが、歓子も、寛子も、皇子を産むことはなく、治暦4年(1068)4月に後冷泉天皇が44歳で崩御すると、頼通・教通兄弟を外戚としない尊仁親王が即位し、後三条天皇となった。

 後三条天皇は延久4年(1072)、道長の子・藤原能信(母・源明子)の養女との間に生まれた貞仁親王に譲位した。貞仁は白河天皇となり、白河の異母弟・実仁親王が、2歳で皇太弟に立てられた。

白河天皇

 白河天皇は実仁親王が死去すると、応徳3年(1086)に、頼通の子である藤原師実の養女・賢子との間に生まれた善仁親王を皇太子に立て、譲位した。

 善仁は8歳で即位し、堀河天皇が誕生。幼帝の政務を代行するため、白河上皇が院政を始めた。

 白河上皇は近臣や平氏などの武士を登用し、専制権力を振るう。このように日本は、武士が力を持つようになる中世を迎えることとなったのである(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

 

 ドラマも最終回を迎え、こちらの連載も終了となります。一年間、お読みくださりありがとうございました!