花山天皇のもとで

 平安末期に成立した歴史書『日本紀略』の貞元2年(977)3月28日条には、東宮師貞親王(のちの本郷奏多が演じる花山天皇)の読書始において、「文章生」藤原為時が尚復(講読の復唱など、講師の補佐役)を務めたことが記されている。為時が、29歳ぐらいのときのことである。

 文章生とは、大学寮で紀伝道(漢文学および中国史)を専攻した学生を指す。

 永観2年(984)8月、師貞親王が即位すると(花山天皇)、為時は式部丞で六位蔵人に任じられた。

 式部丞とは、文官の人事や学問などを担当する式部省の三等官である。紫式部の「式部」は、このときの為時の官名に由来するといわれる。

 さらに為時は同年12月に、宮中の蔵書を管理する内御書所の別当となった。

 ところが、寛和2年(986)、花山天皇が出家・退位し、塩野瑛久が演じる一条天皇が7歳で即位すると(寛和の変)、停任の憂き目を見ることになる。

 以後、為時は10年もの間、散位(位階のみで官職がない)生活を送った。

 為時が再び官を得るのは、長徳2年(996)、道長が政権の座についてからである。

 

為時、越前守に

 長徳2年(996)正月の除目(人事移動)において、はじめ為時は淡路守に、森田甘路が演じる源国盛が越前守に任じられた。

 任国には大国、上国、中国、下国の区別があるが、越前国は大国、淡路国は下国である。

 ところが、二人の任国は交換され、為時が越前守となった。

『今昔物語集』などでは、淡路守を不服とした為時が詠んだ

 苦学寒夜紅涙襟霑
 除目後朝蒼天眼在

(苦学の寒夜、紅涙襟を霑す。除目の後朝、蒼天眼に在り)

 という詩が一条天皇や右大臣藤原道長の心動かし、道長は自分の乳母子である源国盛に越前守を辞退させ、代わりに為時を任じたことが綴られている。

 たが実際は、前年の長徳元年(995)に若狭国に漂着し、越前国に移され、交易を求めていた浩歌が演じる朱仁聡ら70人余の宗人との折衝にあたらせるために、漢詩文の才に優れ、宗人との意思疎通が可能であった為時を越前守に任じたのだという(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。

 こうして、為時は越前に赴任し、ドラマでも描かれたように、紫式部も父に同行した。為時、47歳のときのことである。

 越前赴任後、為時は宋人と詩の贈答をしており、平安時代中期の漢詩文集『本朝麗藻』(下 贈答)には、宗客・羌生昌に贈った詩が収められている。