息子・惟規に先立たれる
寛弘8年(1011)2月、為時は越後守に任じられる。為時は63歳になっていた。
為時は任地に向かったが、今回は紫式部ではなく、息子の藤原惟規がともに下向した。
ところが、惟規は旅路の途中で重い病に罹り、越後国に着くと病没したといわれる。
息子に先立たれた影響か、為時は長和3年(1014)6月、任期半ばで越後守を辞任し、帰京している。
そして、長和5年(1016)4月、三井寺(円城寺)で出家した(『小右記』長和5年5月1日条)。三井寺では為時の息子で、のちに阿闍梨となる定暹(紫式部の異母弟)が修業していた。
一説では、為時の帰京・出家は、京で紫式部が死去したためといわれる。
だが、紫式部の没年は長和3年説、長和5年説、寛仁元年(1019)年以降説、万寿2年(1025)以降説、長元4年(1031)説など諸説あり、為時の帰京・出家の理由もあきらかではない。
為時法師として
為時は出家後も重用されたようで、寛仁2年(1018)正月21日、道長の嫡男・渡邊圭祐が演じる藤原頼通の正月大饗用の四尺倭絵屏風に漢詩を献上した貴族のなかに、「為時法師」の名がみられる(『御堂関白記』、『小右記』ともに寛仁2年正月21日条)。
これを最後に、為時の動静は不明で、没年も定かでないという(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。
官人としては些か不遇であった為時だが、文人としてはよい人生を送れたと信じたい。