文=細谷美香

ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞を受賞した最新作

 カンヌ映画祭脚本賞、アカデミー賞国際長編映画賞などを受賞した『ドライブ・マイ・カー』によって、世界中で新作が待ち望まれる映画作家のひとりとなった濱口竜介監督。日本では約3年ぶりとなる公開作であり、ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞を受賞した最新作『悪は存在しない』が届いた。

 この作品の出発点は『ドライブ・マイ・カー』で音楽を担当した石橋英子から届いた、「ライブパフォーマンス用の映像を作ってほしい」という依頼だったという。そこからライブ用のサイレント映像『GIFT』が誕生し、役者たちの声を生かしたバージョンとして『悪は存在しない』が完成した。

 舞台となるのは、移住者も増えてきている長野県の自然にあふれる町。巧と娘の花が暮らすこの土地に、グランピング場を作る計画が舞い込む。それはコロナ禍の補助金を元手に、東京の芸能事務所が立ち上げたプランだった。事務所の高橋と黛がやって来て説明会を開くが、環境を変えてしまうかもしれないいい加減な内容を聞いた町の人々からは、反対する意見があがる。

 監督はこの作品の成り立ちに深く関わっている音楽家、石橋英子が活動している場所を歩き、物語の構想を練っていったという。自然を壊しかねない杜撰な計画の説明会では声を荒げる者もいるが、森のなかのことをよく知る巧や水のおいしさに感動してうどん屋を始めた移住者の女性、長老的な人物も静かに自分の意見を述べる。

 この説明会のシーンからも伝わってくるのは、わかりやすさに収れんしていかない物語の面白さだ。現代社会の縮図のように両者の対立や和解、自然と人間との関係を描いていくのかと思いきや、映画は思いがけない方向に展開していく。

 登場人物たちが何をしでかすのか、森のなかで何が起こるのか。自然光を生かして森の美しさと不穏さを捉えた映像には、どこに連れて行かれるのか分からないスリリングな気配と、ずっとこの世界を観ていたいと思わせるマジカルな力の両方が宿っている。

 ユニークな制作過程を持つこの作品は、音の映画ということもできるかもしれない。石橋による厚みのある不協和音のような音楽はもちろんこと、薪を割る音や銃声などの環境音まで、すべての音に耳を澄ますことで没入感が高まっていくのだ。

 監督は『ハッピーアワー』のようにプロの役者以外もキャスティングしており、巧を演じたのは映画制作スタッフだった大美賀均。『ドライブ・マイ・カー』でも採用されている抑揚のないセリフ回しやあまり変わらない表情ゆえか、どこか核心の見えない人物として存在している。

『ドライブ・マイ・カー』と同じように妙な吸引力があるのが、車中での会話だろう。芸能事務所のふたりが会話をするなかで、高橋がこの土地での暮らしを夢想するあたりには思わずくすりと笑ってしまうようなユーモアもある。

 人間が自然を見つめているのか、それとも自然が我々を見つめているのか。思わず声が出そうになってしまうほど衝撃的なエンディングには、咀嚼しきれない後味が残る。二元論では裁けない物語の果てを目にして、“悪は存在しない”というタイトルと向き合うこの感覚を、ぜひ劇場で体感してほしい。

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