文・写真=豊福 晋

ブダペストの路面電車

 雨あがりの並木路の彼方からガタゴトとやってきた橙色の路面電車は、落ち葉が揺れる水たまりの前で関節がきしむようなギイという音をたてなんとか停車すると、さびかけたその扉をゆっくりと開いた。

 ブリキのおもちゃみたいな車両に、細長い紙の切符を握りしめて乗り込む。ブダペスト西岸を縦に走る19番線は地元民の毎日の足だ。

 向かったのはドナウ川沿いにある温泉だ。ハンガリーの首都には創業100年を超える湯屋があちこちに点在している。時に灰色だった歴史の途上でハンガリーはあらゆる国の侵攻をうけ、国のかたちは変わりつづけた。共和国となり、王国となり、長い共産主義も経験した。揺れる時代の中で、マジャールの大地はどんな時も温かな湯を生み流してきた。欧州で温泉といえば、やはりハンガリーである。

 切符に刻印をしなければ、そう思って、柱の小さな機械に切符を入れたものの、うんともすんともいわない。何度差し込んでも、切符の角度を変えても、赤い刻印機はただじっと訪問者を試すかのように構えている。

 あきらめようとした頃、刻印機の隣に座っていた赤毛の女性が、かしなさい、というしぐさで手を差し出し、慣れた手つきで切符を入れ、差込口をぐいと引き下げた。がちゃんという音が響く。手渡された切符には見事に小さな穴があいていた。

「冷戦時代の刻印機」と彼女はいった。

「前時代のものがいたるところで普通に使われてる。この街そのものね」

 薄緑の瞳に淡い笑みを浮かべ、読んでいた本に目を移す。戸惑う異邦人の刻印を助けるのは、ブダペスト市民にとって特に珍しいことではないのかもしれない。

 通勤客らしき男が手元のiPhoneを眺めている。ドアが閉まる直前に滑り込んできた、スポーツバッグを下げた学生たちもスマートフォンを手に語りあう。

 ドナウのほとりをゆるやかに走る古びた車体は、あらゆる人びとの日常を乗せて進んでいく。きしむ床から伝わってくる振動が心地よかった。

 

ゲッレールト温泉を愉しむ

 ホテル・ゲッレールトの木製の回転扉をくぐると、そこには異空間が広がっていた。

 古い紋章が刻まれた磨りガラスの下に朱色の絨毯が敷かれている。大理石の主柱は創業100年をこえる老舗ホテルの門番のようだ。帝国時代の趣に見入っていると、背後から声をかけられた。

「入浴ですね」

 いつの間にそばに寄ってきたのか、気がつけばよく手入れされた制服をきた初老の荷物係が隣にいた。経験を積んだポーターは決して足音を立てない。

 彼は温泉の入り口への行き方を細かく説明してくれた。

「どうか迷わないでください。この建物は迷路みたいですから」

 曲がりくねった階段をあがり、鼈甲色のステンドグラスが散りばめられた回廊を抜け、無数のヴィーナス像の間を進むと、温泉の入り口にたどり着く。入湯料は1日で5300フォリント(約1900円)。更衣室で水着に着替え、中へ足を踏み入れた。

 壁面の鮮やかな色彩が目を引く。空色のタイルに、ゴールドを基調としたモザイクがあしらわれている。色とりどりの丸模様は形を変えながら天井へと向かっていて、空に浮かんだ星々のように見える。天窓から差してくるぼんやりとした午前の陽光が、湯口に座る人魚のつるつるとした肌を照らしていた。

 その装飾の美しさにかけて、ゲッレールトを超える温泉はないだろう。現在公開中の映画『フレンチ・ディスパッチ』のウェス・アンダーソン監督は、ゲッレールトのシンメトリーな装飾に影響を受けたと語っている。同作や『グランド・ブタペスト・ホテル』(2014)の中にも、ゲッレールトのかけらを感じることができる。

 太陽がブダペストの街を上から照らす時刻になるとタイルの色合いも変わり、透き通った湯につかる人々は古い絵の中の人物のようだ。非日常を感じる空間で、来客は心ゆくまでアールヌーボーな湯を愉しんでいた。