日本人にとってヨーロッパの風景画というのは馴染みのない分、退屈と感じる方も多いのでは? あえて「つまらない」とおもって見れば何かが見えてくる? 風景画を変えたといわれるターナーや、SOMPO美術館(東京・新宿)で開催中の「ランス美術館コレクション 風計画のはじまり コローから印象派へ」でも取り上げられているコローの絵を見ながら、風景画の「面白さ」に迫る。
文=鈴木文彦
風景画はつまらないです
日本や中国では、風景画というのは古くから人気のジャンルでしたが、ヨーロッパの風景画って退屈だとおもいませんか?
実際、風景画は、ヨーロッパではあんまり重要な絵画のジャンルとしては扱われていませんでした。
ヨーロッパには、絵画のジャンルごとに偉さが決まっていて、偉い絵画ほど、大きな壁や大きな画布で描くの通念でした。その偉さランキングは、1位 歴史画・神話画・宗教画、2位 肖像画、3位 静物画、4位 風景画と風俗画です。
筆者はこれ、いまの映画みたいだと思います。ハラハラドキドキの大作アクション映画はIMAX上映。そこから、派手なシーンよりもストーリーでみせる映画になるとIMAX版がなくなり、ドキュメンタリーや流氷にシロクマがのっかっている風景なんかがメインの映画、自主制作っぽい映画や文芸っぽい映画、と段々、スクリーンのサイズとか劇場の規模や数が小さくなっていく、あの感じです。
かつての絵画はいまの映画みたいなものだ、と考えると、ヨーロッパの昔の絵画が、誰かが家に飾るようなものではなく、もっと公共の空間にあったものだ、というのも分かりやすくならないでしょうか。
肖像画や狩りの獲物を描いた静物画くらいになって、ようやく貴族が家族や自分の記念写真のような感覚で、個人的に画家に発注するようになるのですが、風俗画、たとえば「仕事終わりに労働者がビールを飲んでいる絵」とか、風景画「なんとか山となんとか山の間にある道を描いた絵」とかいったものをみせられても、十字軍の大活躍シーンとか美しい女神たちが美を競い合うシーン、とかいったものと比べると、インパクトが弱いですし、そんなに大々的に、公開するようなものか? となってしまうわけです。
ヨーロッパで風俗画や風景画が早期に流行したのは、オランダだと言われているのですが、これもそこが理由で、オランダは、1648年に独立戦争がおわって王制が廃止され、市民のなかのお金持ちが、個人的に、絵画を買うようになったこと、また、オランダがプロテスタントの国で、プロテスタントは偶像崇拝を嫌いますから、宗教画にも、あまりニーズがなかったことが原因だと言われます。
絵は映画と違って、いつも再生状態ですから、個人が家に飾るとなると、あんまり巨大な絵や、ド派手なシーンの絵は、ちょっと邪魔なのです。
風景画を変えたイギリスの画家、ターナー
オランダが独特な風景画、風俗画の発展をみせている一方、ヨーロッパは全体的にはまだ封建的な社会で、風景画の扱い、地位は低いままでした。これを変えた最初の人物は、イギリスの画家、ターナーだといわれています。
風景画の欠点は派手さがないことです。風景画というのは、背景っぽいのです。実際、ドラマチックな場面の背景を描く技術というのは、画家に必要なものなので、風景画が描けることは重要なのですが、風景だけ切り出すと、インパクトが弱いというか、どこをどう見ていいかがいまいちわからない。
そこで、画家は風景画を描くときには、なんらか動きのある要素を盛り込みがちでした。それは、人間だったり動物だったり、あるいは神様だったり、神話のエピソードに登場する建造物だったりしたのですが、ひとまず、ここを見て、というポイントを足していたのです。
ところがターナーは、そういう、他ジャンルちょい足しではなく、風景そのものをドラマチックに描きました。荒れ狂う海や嵐、神秘的な太陽の光などは好例ですが、大地や空を平板に描かず、トリッキーなデフォルメを加えて描いている場合もあります。自然に、動きがあるのです。
理想か現実か
さて、次に重要になってくる場所が、19世の首都ともいうべきフランスです。フランスでも、オランダの場合と同様、社会の変化が風景画の変化にかなりの影響を及ぼしています。
1830年の7月革命あたりから、フランスでは、封建社会と市民社会のミックスのような社会が形成されていって、だんだん、大作絵画のニーズが減り、肖像画、風景画、風俗画で、ほどほどのサイズのものが、結構、売れる、という状況が訪れます。
買ってくれるのは、貴族の場合もあれば、お金持ちの市民の場合もありますが、こちらが無視できない市場になってくるのです。そして、徐々に世の中から国家や貴族の影響力が薄まり、市民社会がやってくると、いよいよ、かつての絵画の偉い、偉くない論争は形骸化していきます。偉い絵画を描いても、さして生活の足しにならず、むしろ、家に飾っておきたい絵、それは、気持ちを落ち着かせたり、やる気をださせたり、家にあそびにきたお客さんに自慢したり、といった用途の絵画が売れるようになります。
1796年生まれのコローは、画家として活動しはじめるまでに紆余曲折あって、26歳ごろからプロとして活動しますが、そこはちょうど、そんな絵画の変わっていくタイミングでした。そしてコローは、この時期の絵画史における、非常に重要な人物だとされています。
コローが選び、得意としたジャンルが風景画でした。前述のように、風景画は、ポジション的に高いものではなく、コローは、そもそもお金には困っていなかったのですが、プロ画家としての売上では苦戦します。
さらに、当時は、風景画の中にも、偉い偉くないがあり、偉い風景画を描け派と、偉い風景画はおかしい派がいました。これは風景画に限らず、ほかのジャンルでもあった対立なのですが、風景画は、この2流派の戦いの主要なバトルフィールドのひとつだったのです。
ひとつが、リアリティ重視派。これは現代だとイメージしやすいのですが、風景をなるべく、そのまま描こう、という派閥です。ところが、こっちは当時はかなりマイナーです。
このころ、美術の世界で大きな顔をしていたのは、もう一方の、自然美化派でした。この派閥は、自然というのはそのままでは美しくない、と考えています。美しくないので、自然のダメなところを見つけてきて、美しくなおしてやるのが、画家の役割だ、と主張するのです。ちなみに、ここでいう自然というのには、動植物のほか、街の風景とか、場合によっては女性も含まれます。
この美化派のやっかいなところは、美しいとはこういうことだ、というルールがあるところです。それは、古代ギリシア・ローマに美の理想郷があり、そのころに出来たもの、あったものの再現が望ましい、という主張なのです。ところがコローは、そもそもはその文化圏であるイタリアで過ごした経験から、そんなことはないんじゃないか?と考えます。
屋外でスケッチしてきた風景を、アトリエのなかで、ここには古代にはあった橋を足そう、ここは実際はたしか暗かったけれど、ちょっと明るくしてやったがより美しいのではないか、ここには美女を足したら、より素敵なんじゃないか、と手直ししていく作業よりも、実際の太陽に照らされた陰影のほうが、いま、そこにいる女性をそのまま描いたほうが、美しいんじゃないか、と考えるのです。
コローが風景画にもたらしたもの
結果的に、コローの絵画は、折衷的です。基本は美化派なのですが、ちょっと違うのです。自分が現実から受けた感動、リアリティを表現しています。それを中途半端と見ることも、当時的に通用する範囲のなかで、可能な限り挑戦したと見ることもできるかとおもいます。
その後、絵画の客層が市民よりに変わり、さらに、チューブ式の絵の具が現れて、屋外で色を画布に載せるのが現実的になると、綿密な仕上げや、写真的リアリティは必ずしも問題ではなくなり、むしろ、その風景から受けた印象や感動を、ダイナミックに、なるべくリアルタイムに表現した絵画のほうが受けるようになります。それが印象派なのですが、コローの絵画は、現実の風景を元に、その風景から受けた感動を伝えようとした絵画として、印象派の父、というような評価をされることになります。
というわけで、今後、特に19世紀くらいまでのヨーロッパの風景画を見る際には、風景画はつまらないものだ、という先入観をもって見ることをおすすめします。そうすると、そのなかで、画家が、どこを面白くしようとして頑張ったのかが、見えてくると筆者はおもいます。