〝風刺〟という表現を前に、私たちが今議論するべきこととは?

文=鈴木文彦

©️Art Gallery ErgsArt - by ErgSap
オノレ・ドーミエ『トランスノナン街、1834年4月15日』
製作年/1834年4月
種類/石版画(リトグラフ)

風刺という表現のはじまり

 風刺、というのは文章、絵画、劇などはもちろん、ラジオやテレビ、映画でも採用される表現方法で、現実に対してなんらかの攻撃を加えるもの、とされます。ヨーロッパの文化の流れでは、戯曲や詩で紀元前5世紀、古代ギリシャの時代からあったとされています。

 ヨーロッパでの政治批判、社会批判としての風刺作品を語る際に、最初のほうで名前があがるのは、フランス、ルネッサンス期のインテリ、フランソワ・ラブレーによる『ガルガンチュア物語』です。とはいえ、おそらく、フランス文学を大学で専攻でもしない限りは、ラブレーのこの作品がどんな作品かは、ほとんどの人が知らないことでしょう。ほかに、あまり風刺作品としては考えられていないかもしれませんが、18世紀アイルランドの作家、ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』も、有名な風刺作品です。

 ガルガンチュアという巨人の名前だけは、聞いたことがある人がいるかもしれません。とはいえ、ガルガンチュアは今日、ガリヴァーほど有名ではないでしょう。それは、『ガリヴァー旅行記』で描かれたもののほうが、最近の作品に引用される機会が多いことによるのではないかと筆者は考えます。例えば、アニメ『天空の城ラピュタ』のラピュタという名前とそのイメージのソースは、『ガリヴァー旅行記』に登場する空中に浮かぶ巨人の都市です。これはどうやら、完全なスウィフトの想像の産物ではないそうで、実際、9世紀頃のフランスの記録には、空中の王国と交易した、というものがあるそうです。

 

19世紀の風刺画を読み解く

 空中都市がかつて地球に実在した、とすれば、とても夢のある話ですが、それはさておき、風刺作品というのは他の芸術作品と比較した場合、現実の出来事がより色濃く作品に反映されている、というのが特徴のひとつで、ゆえに、作品成立時から長い年月が経過したり、作品成立の場所から遠く離れたりすると、この連載の第4回でもいった「なんの話なのかわからない」「どこが面白いのかわからない」という現象がおこりやすい、という特徴があります。

 というわけで、今回話題にしたい、オノレ・ドーミエの『トランスノナン街、1834年4月15日』という版画作品も、なにか悲惨な風景を描いているらしいことはわかっても、いったい何が描かれているのかは、現代では調べてみないとわかりません。

©️Leonardo Romero
オノレ=ヴィクトラン・ドーミエ(Honoré-Victorin Daumier/1808〜1879年)は19世紀のフランスで活躍した画家。ジャーナリストのシャルル・フィリポンに抜擢され、1831年から新聞に風刺版画を掲載。識字率の低かった当時のヨーロッパで、高い人気を集めた。生前はほとんど知られることはなかったが、当時のパリを描いた油絵も多数残している

 それでも、この作品を読み解いてみるのは、ウイルス蔓延の影響下にある現在の我々に、なにかヒントをあたえてくれるのではないかと、筆者がおもうからです。

 

都市文化とジャーナリズム

 まず、これが描かれた19世紀前半のフランスの状況を簡単に説明したくおもいます。この時代はフランスにおけるジャーナリズムの勃興期です。印刷技術の発展、民主化の進行、都市化といった時代背景から、現在の新聞や週刊誌のような印刷物がいくつも創刊されました。

 こういった印刷物は、同じものがある程度の数、印刷される必要があり、また、文字ばかりではなく、画像も掲載されているほうがよりよい、という特徴があります。

 とはいえ、現在のような写真もなければ、それをデジタルで処理、複製するような技術もありません。そこで、写真のかわりとなったのが、画家が描いたデッサンや水彩画をもとにしてつくられた、あるいは画家が直接つくった、版画をつかった印刷です。オノレ・ドーミエは、この版画家として注目された画家でした。

 1808年生まれのドーミエが特に有名になったのは1830年頃です。このころ、フランスでは、フランス革命後の政治的混乱のなかから誕生した皇帝ナポレオン・ボナパルトが失脚、そのあとに王政が復活、という出来事を経て、1830年7月に革命がおこり、ルイ・フィリップという王が、市民の支持を得て王位についていました。

 まだ王が統治する体制ではあり、市民にしても、階級による政治的発言力の差がはっきりとしていたのですが、それでも、封建社会とくらべれば、現在の市民社会にちかい社会でした。それがゆえに、ルイ・フィリップ王と政治家たちは、なにかとジャーナリズムの批判の対象となっています。とりわけ、当時、よく流通したのが、ルイ・フィリップの頭を洋梨に似せて描く、カリカチュアでした。オノレ・ドーミエは、この梨頭のルイ・フィリップの諷刺画を多数描いています。ルイ・フィリップを、先のラブレーの作品に登場する大食いで下品で知的な巨人、ガルガンチュアに見立て、王が労働者から税として徴収したものを貪り食う姿を描いた諷刺画『ガルガンチュア』はヒット作となりましたが、このあたりの王をからかった作品が原因で、ドーミエと彼が寄稿していたメディアは国と争うこととなり、罰金を支払わせられる事態にもなりました。

©️Norma Fincher 
オノレ・ドーミエ『ガルガンチュア』
制作年/1831年
種類/石版画(リトグラフ)

あったとしても不思議ではないこと

 そこで、ドーミエがおもに活躍していた新聞『ラ・カリカチュール』と『ル・シャリヴァリ』(いずれもシャルル・フィリポンという人物が創刊したもの)は、『月刊 版画 友の会』なる別冊を発行し、その売上で罰金の支払いをしたそうです。その友の会に掲載されたドーミエの版画の一枚が、今回の『トランスノナン街、1834年4月15日』です。

 ルイ・フィリップ王政は、ブルジョワジー、つまり、資産家や経営者に支持されていました。このため、ブルジョワジーに雇われる労働者階級の生活は、革命時に期待されたようなものにはなりませんでした。いわゆる、搾取される存在でありつづけたのです。王政は、彼らの反乱を警戒し、言論に制限をかけたり、検閲をしたり、集会を禁じたりと、特にその成立初期には締め付けを強くしていたのですが、1834年4月、リオンで起こった民衆の蜂起が、パリにも飛び火。パリのトランスノナン通りではバリケードが築かれ、武力衝突が発生しました。このとき、政府側の歩兵の指揮官が、付近の集合住宅からの銃撃によって負傷。政府軍は銃撃がなされたとおぼしき建物に踏み入ると、銃撃がなされたとおもわれる部屋にいた、14から15名を殺害し、同建物の他の住人にも、重軽傷を負わせたとされています。

 この版画は、その出来事を描いたものです。貧しさがうかがわれる室内、あらされた形跡、あきらかに労働者とわかる男の死体、この男の下に横たわっている子供。悲惨でショッキングな映像ではないでしょうか。この絵がもつ迫力、メッセージ性は、同時代の芸術家も称賛し、絵の具や画布によるのではない表現方法によって、強烈なイメージを描き出す芸術家として、ドーミエは高く評価されることになりました。

 しかも、この版画は、カリカチュアとはちがい、作者の価値判断をふくまない、フラットな現実の風景の描写として、検閲にひっかかることはなかったそうです。

 今日、報道写真ですら、偏向性、恣意性をとがめるようなことがあります。しかし、このドーミエの絵を見ると、筆者は、果たして問うべきはそこなのだろうか、と疑問を懐きます。ここに描かれた風景は真実なのか、ドーミエによる創作なのか、それを問うことはもちろん必要なことかもしれません。しかし、同時代を生きた人々からすれば、たとえあったとしても不思議ではないこと、ではあったのではないでしょうか。であれば、むしろ問われ、議論されるべきなのでは、ここで殺された人々は、社会にとって悪であり、当然の報いを受けたのか、あるいは憐れむべき犠牲者なのか。この状況を生んだのは、体制に反抗する一部の過激派なのか、あるいは為政者なのか。そういったことではないでしょうか。

 1848年2月。ルイ・フィリップ王政は労働者(プロレタリアート)を主体とした革命によって打倒されました。