世界のトップメゾンが買い付ける究極のピッグレザーは、墨田区でなめされていた。

文・写真=山下英介

東京・墨田区のタンナー「山口産業」の作業風景。こちらは革を脱水する工程だ

革なめしのメッカ、墨田区へ

 そういえば、今まで「タンナー」の取材ってしたことないなあ。

 動機は実に単純だった。もともとレザーが大好きで、とんでもない数の靴やバッグを所有しているし、シューメーカーやビスポークバッグ職人さんをはじめ、今まで様々なものづくりの現場を取材してきた。

 しかし、「皮」を「革」になめす工場、いわゆるタンナーをきちんと取材したことは一度もなかった。そんなことがすこし気になっていたところ、偶然開いた週刊誌で、「山口産業」というタンナーが墨田区にあることを知った。ホームページを拝見したところ、ピックスキン(豚革)を専門に手がけているという。すぐさま取材を依頼したところ、快く受け入れていただいた。

荒川の土手沿いにある「山口産業」。とはいえその作業に川の水を使っているわけではなく、排水処理の方法も厳格に定められているので、排水を川に流すこともない

 巨大な工場が軒をつらねる、荒川の土手沿いにある一本道。あたりを行き交う大型トラックに隠れて見落としてしまうような、年季の入った木造の小さな工場が「山口産業」だった。僕を迎え入れてくれたのは、代表取締役の山口明宏さん。僕が抱いていた〝タンナーの社長〟像とは少し違った、お洒落で知的なムードの方である。

 「弊社は私の祖父が1938年に創業したのですが、墨田区にあるほかのタンナーも、そのくらいに創業したところが多いんです。当時は軍靴の需要が非常に多かったですから。なぜ豚革かというと、関東エリアで養豚が盛んだった影響で、東京がその革の生産地になったわけです。戦時中は物資が不足しますが、牛の場合成長するまでに2年半かかるのに対して、豚なら約半年で大きくなって、食肉にできる。私たちはそこから供給されたピッグスキンをなめして、靴の一大生産地だった浅草のメーカーに卸していたわけです」

優に築50年を超えるタンナーは、かなり古びてはいるが、清潔で自然光が降り注ぐ気持ちのよい空間。いやな匂いも皆無だ。この雰囲気に惹かれ、ドラマの撮影に使われることも。左にある機会は、レザーにアイロンをかけてツヤを出すアイロン

食肉文化と皮革文化のかかわり

 なるほど、レザー製品やその革なめしには、時代情勢や食肉文化が大きく影響しているようだ。そういえば、牛肉文化圏である関西では、姫路でなめされる牛革がよく知られている。僕が大好きなヨーロッパやアメリカのレザーも、そういった文化風土の賜物なのである。では豚肉が美味しい東京でなめされたピッグスキンは、やはりクオリティも高いのだろうか?

 「日本では三種類の豚を掛け合わせた三元豚が主流なのですが、養豚のときにお肉を美味しくするためにしていることが、革質のよさにつながっています。ただ、単純によい肉=よい革というわけではありません。黒豚のように脂が多すぎる品種は、うまくなめすのが難しいんです」(山口さん)

タンナーに届く原皮は、毛がついたままの状態。腐敗を防ぐため、塩漬けにされている。なめす前に塩分や汚れを落としたり、毛を抜いたりと、前処理の工程は非常に多い

 実はヨーロッパにおいて滑らかなピッグスキンのステイタスは、カーフを凌駕するほどに高いのだが、その多くの原料は、日本から輸出されたものなのだとか。そしてその中でも、「山口産業」がなめすピッグスキンは別格の存在。しかしなぜそれが一般的に知られていないのかというと、あるメゾンブランドとの契約で、名前を明かせないから。うーん、実に惜しい!

知る人ぞ知る、「山口産業」がなめしたピッグスキン。滑らかな質感と通気性のよさが魅力だ

 聞けば日本では毎月100万頭の豚が食べられていながらも、国内でなめされているピッグレザーはわずか1万枚。残りはすべて海外に輸出されてしまっているという。豚肉文化と、豚革文化とがアンバランスなのである。

 

なめし産業の衰退と、新しい可能性

 その背景には、国内におけるなめし産業の衰退があると、山口さんは語る。

 「私たちの上の世代にあたる同業者は、戦後の高度経済成長期に確立した、大量につくってバンバン流すというビジネスを捨てられませんでした。製品づくりにしても、ヨーロッパの真似ばかりで、独自の技術を開発することもありませんでしたし。真似している時点で、何年も遅れているということなのにね。そういうところは今やほとんど廃業してしまい、もう数社しか残っていませんが」

ひとくちにピッグスキンといっても、厚みや質感、そしてその用途も様々だ。「山口産業」では、染料に関しても環境に優しい基準で選んでいる

 ほかの老舗タンナーとくらべるとひと世代若かった「山口産業」は、当時の余韻でビジネスを続けたり、サイドビジネスで稼ぐスタイルに〝逃げる〟ことは許されなかったのだが、だからこそ技術を磨くしかなかった。そんな試行錯誤から生まれてきたのが、「ラセッテー」という植物タンニンなめしの技法である。

レザーの前処理を済ませた後の皮は、なめし剤に漬けることによって化学反応を起こし、革へと変化する。こちらはなめした後の革で、これを乾燥させた後、縮んだ繊維を平らに伸ばす必要がある

環境に優しい「ラセッテー」なめし

 レザー(原皮)とは、剥いだそのままでは「革」にはならない。まずは余分な脂や毛を落とした後に、腐敗や硬化を防ぐ「なめし」という処理を施すことによって、その性質を安定させる必要がある。人間は古代から様々な方法によるなめしを試みていたのだが、現代では大まかにわけて、ふたつの方法が用いられる。そのひとつが塩基性硫酸クロムと呼ばれる化学薬品による「クロムなめし」、もうひとつが植物タンニンを使った「タンニンなめし」である。

 前者は現代の主流になっている技術で、個体差の少ない美しい仕上がりが特徴。効率はよいのだが、排水による環境汚染のリスクがあり、ドイツなどでは強く規制されている。

こちらはレザーを染色するために使うドラム槽。洗濯機のように回転させることで、染料が革に染み込みやすくなる。皮を革にするまでに要する期間は、およそ2週間。季節ごとにレシピ調整や温度管理など、細かく注意する必要がある

 これに対して後者は、ミモザを中心とした植物から抽出した〝渋〟の成分「タンニン」を使った、古代から行われているなめし技術。環境に優しいがその分手間ひまを要するという。この技術でなめされた革は、日光や油分によって変化しやすいが、それがレザーならではの経年変化や、奥深い風合いにつながるというわけだ。日本においては1980年代頃までは、ある意味忘れられた技術であった。

 「父が1990年頃にフランスの皮革展示会に行ったときに、紅茶のような匂いがする一角を見つけたんです。聞いてみると植物タンニンなめしという昔ながらの製法でつくった革だと。その業者さんから、これからは環境に配慮しないとダメだよ、という話を聞いたことがきっかけで、うちも開発に着手したんです。それから独自に研究して、ミモザのタンニンを使ったピッグスキン『ラセッテー』が生まれました。その後、2015年の代替わりのときにクロムなめしは完全にやめました。うちのクロムなめしは発色がよく好評だったのですが、環境を考えると、もうやめたほうがいいかな、と思ったんです」

 

後編に続く