文=松原孝臣 写真=積紫乃
縁がなかったフィギュアスケート
愛知県名古屋駅から列車に乗り十数分。南大高駅を降りて1km強の道のりを進んだ先に、大型トラックの出入りできる広々とした門がある。その向こうにはオフィス棟や工場が並んでいる。
山一ハガネである。強度や硬さなど特殊な性質を持つさまざまな種類の特殊鋼を販売するほか、加工や熱処理なども行なっている。
山一ハガネは、小塚との出会いでブレードの開発・製作へと足を踏み入れた。ただ、フィギュアスケートとはそれまで縁はない。
「形はある程度できる自信はありましたが、スケーターの人が履いたときにどうなるかは分からなかったですね」
開発に打ち込んできた山一ハガネの石川貴規は言う。
山一ハガネの技術開発センター長、藤井正法氏も2018年4月にこう語っていた。
「スケートが分からない集団ですので、見よう見まねでデザインするところから始まり、既製品を分析し、作りました。小塚さんが試してみて、感想などをフィードバックしていただき、修正してまた履いて、という時間のかかる作業を続けてきました」
この言葉にもあるように、開発にあたっては、すでに世にある製品の分析も試みた。そこで分かった事実があった。
石川は言う。
「鉄が使われていましたが、従来のもののベースの材質は、ドラム缶みたいな材料と一緒で、とても柔らかいものでした。でも硬さが入っているパーツもある。柔らかいものと硬いものがくっついているので曲がってしまうんです」
素材自体、きわめて安価なものであることを知った。
旧態依然のままのブレード
フィギュアスケートは、男子、女子ともにより難しいジャンプへの挑戦がなされるなど、進化を志していた。でも、重要な道具であるはずのブレードは、それに伴って進化することなく、旧態依然としたままだった、と小塚は語る。
既製品の素材を理解し、弱点を把握したことから、素材には耐久性の高い特殊鋼を選択することにした。
もうひとつ解決しなければならない課題が、パーツを溶接して作る従来の手法から生じる、製品ごとの品質のばらつきだった。
山一ハガネの出した答えは、大きな塊から削り出してブレードにする手法だった。そうすれば、ブレード全体が1つのパーツとなり、これまでのように部品を溶接してつなぎわせる必要はなくなる。人の手で溶接する必要がないことで、いくつ作っても、品質は一定に保つことが可能となる。
そのアイデアを提案されたときは、小塚も「こういう方法があるのかと驚きました」と振り返る。
難しかった「スケート」の感覚
ただ、そこで完成というわけにはいかない。きちんと滑ることができるのかどうか、そこがクリアすべき課題だからだ。
試作品が完成すると、小塚自身が氷上で試し、さらに他の選手にも試してもらった。そこで出た意見をフィードバックしながらバージョンアップを図った。
難しかったのは感覚の部分だったと石川は語る。
「我々はスケートをやったことがないので、選手の方が言われる、滑る滑らない、といった感覚的なものがなかなか分からない。そこをいかに形状に置き換えるかに難しさがありました」
スケーターの抱く感覚をどのように伝えるのか、そこに小塚の重要な役割のひとつがあった。小塚は語る。
「例えば、スピンがしにくい、という子もいました。そうした声にきちんと耳を傾けることが大事だと思いました。ブレードは替えがきくけれど、体は替えがきかない、選手を尊重しないといけないと思っていました」
2014-2015シーズン、小塚は、山一ハガネとともに作り上げたブレードで大会に出場。さらに無良崇人ら、使うスケーターが現れた。
4年で8回の交換が、3回でOKに
開発に打ち込む時間が到達点を迎えたのは2018年4月24日のこと。この日、山一ハガネの社内で記者発表会を開催し、「KOZUKA BLADES」として世に送り出すことを伝えた。
展示されていたブレードは、11.5kgの塊から削り出された、わずか271gのブレード。
「削り出す作業は機械で数値化されているので、99%、同じ製品が出来上がります」
ブレード自体に靭性(粘り)があり、ジャンプの着氷時などの衝撃の吸収性を向上させ、身体への負担の軽減を図るなど工夫が施されていると説明した。
耐久性について、発表会の席上、小塚はこう説明した。
「従来であれば男子は1、2カ月、女子は8、9カ月で交換になります。平均をとって6カ月で交換するとすれば、オリンピックとオリンピックの間の4年という期間を考えると、8回交換が必要ということになります。このブレードは16カ月はもつので4年間で3回の交換で済みます。また、業界では初めてのことですが、6カ月の保証書もつきます」
ブレードが陽の目を浴び、本格的にスタートを切った日だった。(続く)
小塚崇彦(こづか・たかひこ)現役時代は2010年のバンクーバーオリンピックに出場し8位入賞、2011年の世界選手権で銀メダル。2016年に引退。その後、多方面で活動。スケート教室を開催するなど普及にも力を入れている。