文=松原孝臣 写真=積紫乃
わからなくてもいいから
「今まで芸術系のスポーツは見たことがなかったし、わからないし、でも、『それでもいいです』とのお話でした」
笑みを浮かべつつ、トレーナーの中尾公一は語る。彼が語るのは、フィギュアスケートについてだ。現在、佐藤駿のトレーナーを務める。
佐藤は現在高校2年生。昨シーズン、ジュニアグランプリファイナルでジュニア歴代最高得点をマークして優勝するなど近年、目覚ましい活躍を見せている。武器とする4回転ジャンプを中心に、将来を嘱望される選手だ。
「お話をいただいたのは、今年の2月だったか、春先だったか、はっきりは覚えていないです」
依頼があったときを振り返りつつ、語る。それは中尾にとって、意外な感があった。それまでさまざまな競技の選手やチームを担当してきたが、フィギュアスケートに縁はなかったからだ。
「わからなくてもいいです、ということだったので」、依頼を引き受けた。でも、「本当はやるつもりはなかった」とも明かす。実際、佐藤からの話が来る前にあった別のオファーは断った。トップアスリートにつくことについて、「もういいかな」という気持ちがあったという。
その背景には、達成感があった。
選手とトレーナーの関係は家族以上
中尾のトレーナーとしての活動の中でよく知られるところのは、テニスの錦織圭とのコンビだ。中尾は2008年から2012年まで日本代表チームのトレーナーを務めた。
「錦織(圭)をはじめ、男子を見ていました」
2012年のロンドンオリンピックが終わったあと、錦織から依頼があり、錦織のトレーナーとなった。ナショナルチームでの中尾の仕事に信頼を置いたからだっらろう。
その後、2018年まで6シーズンにわたり職務を務めたが、その間、錦織は2014年の全米オープンで準優勝を果たし、2015年には世界ランキング4位まで昇りつめ、2016年のリオデジャネイロオリンピックでは銅メダルを獲得した。
これらの成績だけとってみても、中尾が担当していた期間、錦織は多くの輝かしい実績を築き上げたことが分かる。世界を転戦して活動するプロアスリートとの日々は、充実もあり、そして多大なエネルギーを注ぐ日々でもあった。
「想像してみてください、1年で250〜260日の間、好きな人と常に一緒にいることを。毎日、出来事も一緒で変わらないわけですから、会話もなくなってきますよね(笑)。家族以上かって? その先を超えていると思います」
中尾はこのように6シーズンを表す。やめたときにはまさに燃焼しきった感があっただろうし、はたから見ても、想像するに難くない。
フィギュアスケーターのトレーニング方法とは
それでも、佐藤のトレーナーを引き受けた。
「家が近いということもあって」
佐藤が練習拠点とする埼玉アイスアリーナからほど遠くないところに住んでいるのだと言う。冗談めかして答えていても、プロのトレーナーとして、任務にあたってきた。
「見る以上は、やっぱり責任をもってやります」
と、中尾。ただ、これまでかかわってきたテニスやバスケットボール、卓球、サッカーなどとは競技の特性が異なる。
おのずと、トレーニングの方法も違うのではないか。中尾は、フィギュアスケートの選手がどのようなトレーニングをしているのか、研究を始めた。そのとき、壁にぶつかった。
「トレーニングのやり方を書いた文献が、なかったことです」
ジャンプの跳び方や練習方法など、テクニカルな部分については書籍などがあった。でも、どのようなトレーニングをすればいいのかが解説してあるテキストがなかった。
「野球にしても、テニスにしても、あるいはサッカーにしても、競技それぞれに、トレーニングの仕方について書かれています。でもフィギュアスケートの選手のためのトレーニング方法については、まったくなかったですね」
各々のコーチからコーチに継承されたり、選手時代に学んだことなどが次の指導の中でいかされているのかもしれないが、それが体系化されていないのは今後の課題かもしれない。
いずれにせよ、責任を果たさなければならない。試行錯誤が始まった。(続く)
中尾公一(なかお・こういち)
トレーナー。大学を卒業後、フリーのシステムエンジニアとして働いたあと、トレーナーの道へ。活動を続ける中でさまざまな競技を担当、2013年から2018年には錦織圭の専属トレーナーを務める。今年からフィギュアスケーター佐藤駿のトレーナーに。