文=松原孝臣 写真=積紫乃
選手が合わせなければいけない道具
少しずつ、でもたしかに進んできた。
2010年のバンクーバーオリンピックに出場し8位入賞、2011年の世界選手権で銀メダル。グランプリファイナルでも2度表彰台に上がるなど第一線で活躍し続けた小塚崇彦が愛知県の企業とともに開発し、世に送り出した製品は、フィギュアスケート界に足場を築いていこうとしている。
それは、「KOZUKA BLADES」(小塚ブレード)だ。
他の競技と比べて、総体的に、あまり道具を多く用いないフィギュアスケートにあって、必ず必要となるのはスケート靴だ。
スケート靴をよくよく見ると、靴と、氷と接する金具の部分から構成されていることが分かる。この金具の部分を、「ブレード」と言う。小塚が世に送り出したのがこの製品である。
スケーティング、ジャンプ、スピン・・・氷と直に接するから、あらゆる面で重要な部分がブレードだと言える。
ところがブレードには、大きな課題があった。比喩的に例えれば、「選手が合わせなければいけない」ことだ。
どういうことか。そこにはいくつかの、ブレードの問題が内包されている。
耐久性に欠け品質にばらつきがある
ひとつには、同じメーカーの、同じ商品にもかかわらず、同じ仕上がりではないことだ。
ブレードは、3つのパーツから成り立っている。それらは溶接されていて、ビスで靴に取り付ける構造になっている。そこに耐久性に欠ける弱点が生じる。
「接合されている部分が、練習や試合でジャンプをやっている中で折れてしまったり曲がってしまったりする。男子の中には2週間から1カ月でそうなる選手がいます」
溶接は人の手で行なわれている。そのため、同じメーカーの同じラインナップのものであっても、同じ出来上がりにならない。
「(溶接の位置に)1.5mmのずれがあったり、1.5度のずれがあったりします。そのため、トップ選手だと何本か取り寄せて、そのうちいいものを選んであとは送り返すという形をとっていたりします」
最も重要な部分であるにもかかわらず、耐久性に欠け、品質にばらつきがあるのがブレードであった。
演技中に壊れることも
耐久性に弱点があるために、大会でアクシデントが起きることもあった。
今も忘れがたいのは2012年の全日本選手権でのことだ。男子ショートの最終グループではこんな出来事があった。
直前の選手の演技が終わり、コールを待っていた選手がリンクで慣らしのジャンプをしたとき、右のブレードが割れた。リンクサイドのコーチのもとに寄ると、コーチは瞬間接着剤とテープで応急処置を図った。だが、懸命の努力もかなわず、棄権をよぎなくされた。最後の全日本選手権と決めていた舞台での、酷なアクシデントだった。
2017-2018シーズンのスケートアメリカでは、ネイサン・チェンをアクシデントが襲った。ショートプログラムの6分間練習でブレードが欠けているのに気づき、コーチが急きょ研いで処置し、演技中はジャンプの助走を変えるなどの対応を迫られた。
そのほかにも、世界選手権で演技中にブレードが壊れて途中での棄権を強いられた選手などもいる。耐久性の問題もさることながら、溶接の位置が一様でないことにより、選手は苦労を負うことになる。
小塚いわく、「選手が道具に合わせなければならない」。そんな本末転倒なことが起きる。小塚自身、競技生活を送りながら頭を悩ませてきた。
「山一ハガネ」との出会い
より違和感を覚えたのは、2012年の頃だった。当時、軽量化されたブレードが現れ、使用する選手が増えていた。だが、滑走音が気になるコーチやジャッジも多かった。
「作りの影響で、どうしても音がノイズ的なところがありました。それが嫌で、重いけれど従来の製品に戻す選手も多かったです。音も、スケートに加味されている重要な部分。そこがなくなってしまうとフィギュアスケートらしさがなくなっていってしまうという危惧も抱きました」
そのとき、出会いがあった。小塚はスケート靴を新調するために足型を測定する必要があった。そのためには海外のメーカーへ行かなければならなかった。
「国内で、できないものか」
つてをたどり、たどり着いたのは名古屋市に本社をかまえる「山一ハガネ」であった。
山一ハガネは小塚の足型を三次元データとして撮影し、足と同じ形状の足型を作ってみせた。工場も見学した。
「航空機の部品とか金型部品とか、大きなものから小さなものまでを作るこれだけの技術があるなら、ブレードを作れるんじゃないかと思いました」
ブレードは、国内に手がけるメーカーもあったが、海外の2つのメーカーがほぼ独占状態にあり、また進化することなく君臨し続けていた。
その世界に風穴を開けたいと思った瞬間だった。(続く)
小塚崇彦(こづか・たかひこ)現役時代は2010年のバンクーバーオリンピックに出場し8位入賞、2011年の世界選手権で銀メダル。2016年に引退。その後、多方面で活動。スケート教室を開催するなど普及にも力を入れている。