文・画像=末永幸歩
ビジネスにも活かせるアート思考
こんにちは、美術教師の末永幸歩です。
私は子どもから大人まで幅広い人に向け「アート思考」と題した美術の授業を展開しています。
アート思考とは、自分の興味や疑問を皮切りに探究し、自分らしい表現を生み出すこと。これは、アーティストたちがアート作品を生み出す過程で行っている思考法です。
昨年2月に上梓し、16万部を超えるベストセラーとなった『13歳からのアート思考』を読まれたというJBpressの編集者さんから、連載のお話しをいただいたのが昨年8月。そこから4回に渡り、「アート思考の授業を受けた中学生や高校生たちが、実際にどのような探究をして表現を生み出していったのか?」ということを中心に記事を書かせていただきました。
JBpress autographは主にビジネスパーソンを対象としたウェブメディアではありますが、記事を読んだ方々から、「美術って様々なものごとに通じる授業だったんだ」「子どもたちの探究過程から日常生活や仕事につながるヒントをもらった」と嬉しいご感想をいただいています。
さて、連載の最終回となる今回は、これまでの記事を読んだ読者の方々からよくご質問される2つのことについて書かせていただきます。
1つ目は、「そもそもなぜこのような探究型の美術の授業をするようになったのか」という経緯について。2つめは、第1回の記事「自分だけの視点を手に入れよう」で紹介した「アートという植物」の喩えについて補足的に私の考えを書きたいと思います。
「自分が表現したいものはなにか」
それでは早速1つ目の、「そもそもなぜこのような探究型の美術の授業をするようになったのか」という経緯についてです。
私は、アート面白さは、作品作りだけではなく、「自分は何を表現したいのかを探すこと」「そのために、自分の興味や疑問に目を向けること」にもあると考えています。これを子どもたちにも体験してほしいと思い、今のスタイルで授業をするようになりました。
この思いを抱いた背景には、個人的な経験があります。
私は幼い頃から絵を描いたりものをつくったりするのが好きで、美術大学では絵画を中心に作品制作をしていました。
卒業後、中学校の美術教員として数年間働いたところで、「また制作に打ち込みたい」「教員の仕事は面白いけれど、新しい挑戦をしてみたい」という思いがふつふつと沸き起こり、思い切って教職を離れ、大学院に進みました。
院試に通り、「よし、いよいよ制作に没頭するぞ!」と意気込んでいたのですが、いざ描こうとするとなぜか描けなくなっていたのです。そのときのわたしの頭の中には、「そもそも、なぜ描くんだろう」「私は、何を表現したいんだろう」という疑問が渦巻いていました。
絵画制作には思うように打ち込めなかった一方で、それとは別にずっと心の片隅にあった「英語を勉強したい」「旅をして新しい文化に出会いたい」という思いから、語学留学や、バックパッカーの旅をしたりしました。
周りの人からは「絵画研究に集中したら」とか、「語学より自分の専門性を高めたら」とアドバイスを受けたりもしました。
しかし、大学院の絵画研究室の先生は、こうした私のとりとめのない行動をみて言いました。
「今、興味の赴くままにやっているすべてのことは、自分のコップに水を注いでいるようなもの。作品作りを急がなくても、水がコップのフチまでたまったら、自然と表現が溢れでてくるものだ」。
その先生自身もアーティストです。
そのころから、私は徐々にわかってきたのです。アートの本質は、他人に認められる作品をどんどんつくることにはない。ましてや、売れる作品を狙ってつくることにもない。この、コップに水をためている過程や、コップに入っている水こそが本質なんだと。アーティストとは、「自分が表現したいものはなにか」と生涯かけて探しつづけ、変化し続ける人なのだと思ったのです。
さて、こうして模索している間にも、時間講師としては、中学校や高校の教壇に立ち続けていました。そのなかで、学校の美術の授業では、「作品の作りかた」(=HOW)の部分が先行し、自分の興味や疑問に向き合い、それらをじっくりと掘り下げる部分(=WHATやWHY)が二の次になっていると感じ、子どもたちに、「後者のアートの面白さを体験してほしい!」という想いで授業をつくるようになりました。
これが、私が今のスタイルで、授業をするようになった経緯です。
「興味のタネ」はどこにでもある
2つめのお話しでは、アートを植物に喩えたイラスト「アートという植物」について、私の考えをお話ししたいと思います。
第1回の連載で、「自分らしい表現を生み出すために、まずは自分の興味(=興味のタネ)に目を向けてみましょう」というお話しをしました。
この話しをすると、「『私はこれが好き』『これをやりたい』という、人生の目的につながるようなことが『興味のタネ』である」と捉える方がいます。例えば、「私は音楽が大好き。だからミュージシャンになる!」というように。
ある方からこんなご相談を受けました。「私には「これが好き!」と強く思えるものがありません。興味のタネがないのかもしれません」。
ここで誤解しないでいただきたいのは、「興味のタネ」は「ただ1つの強い想い」というわけではないということ。じつは、「アートという植物」のイラストでも、タネの色は1色ではなく、七色が入り混じったようにして、そのことを表現しています。
「興味のタネ」は、日常のあらゆる場面で、ほんの小さなことに「いいな」「面白そう」と好奇心を持ったり、「何だこれ?」「なぜだ?」と疑問を持ったりするようなことです。
たとえば、自転車に乗っていて、肌にふと温かい日差しを感じるような、そんな些細な感覚に、小さいこどもがするように興味の目を向けることです。
また、「興味」というと、「好きなこと」や「ワクワクすること」というイメージを持たれる方が多いようですが、じつは、「違和感を持つこと」「怒りを感じること」も「興味」に含まれると私は考えています。違和感や怒りは、「好き」とか「ワクワクする」という感情以上に強いことが多いと考えます。
ふと心に違和感が生まれたり、怒り湧いたとき、それらを急いで拭い去ろうとせず、あえて大切に、心の引き出しにストックしておくと、そこから根っこが生えてきて、いつかどこかで、自分らしい表現につながっていくものです。
先日、小学校で小学3年生に向けて、「アートという植物」のお話しをしました。講義の後、「皆さんの興味のタネは? 疑問に思うことはある?」と問いかけてみると、驚くほどたくさんの生徒が手を挙げました。
「どうやって色が生まれたの?」
「だれが言葉をつくったの?」
「なんで人やものに名前があるんだろう?」
「どうして服を着るの?」
「どうして人間は動物みたいに毛が生えていないの?」
「どうしてビルは高いの?」
「どうしてテーブルで食事するの?家でもピクニックみたいにシートを敷いて食べてみたい」
「どうしてお箸やスプーンを使うの?手で食べてはいけないの?」
「一番最初に始まった時間はいつ?」
自分だけの「アートという植物」を育てる上で大切なのは、この小学3年生たちのように「興味のタネ」の感度を高くして、そこから「探究の根」を張り続けること。
一度「表現の花」が咲いたら「それで良し」ということではなく、地中の冒険を、生涯をかけてし続けることであると考えています。