文・画像=末永幸歩
最近よく耳にする「アート思考」という言葉。単に美術の知識を蓄積することではなく、自分なりのものの見方・考え方を持つ思考法は、ビジネスにも大いに生かせるとあって、注目されています。では実際にどうすれば身につくのか? 『13歳からのアート思考』の著者であり、中学・高校の美術教師として教壇に立ってきた末永幸歩さんが「大人が最優先で学び直すべき授業である美術」の授業を開講。ぜひ、ご期待ください。
大人が学び直すべき教科は「美術」である
あなたは「美術の授業」と聞いて、どのようなイメージを持ちますか?
「運動靴のデッサンをしたのを覚えている」
「彫刻をしたな。不器用だからろくなものを作れなかった・・・」
「教科書にある名画の題名と作者名をやたらと暗記させられた」
こんな声が聞こえてきそうです。
私は、美術教師として、これまで中学校・高校で教壇に立ってきました。
しかし、そこで行ってきたのは、絵を描いたりものづくりをしたりするためのテクニックを身につける授業ではなく、「自分だけのものの見方」で世界を見つめ、「自分なりの答え」を生み出し、それによって「新たな問い」を生み出す———「アート思考」授業です。
今年に入り、『13歳からのアート思考』という本を刊行しました。
「13歳からの・・・」というとおり、内容は中高生に向けた行ってきた授業です。しかし、これに共感し、面白がってくれているのは主に「大人たち」、それも教育やアートとは直接つながりのない「ビジネスパーソン」のようです。
昨今、ビジネスの世界は「課題解決」の力だけでは立ち行かなくなっています。
「多くの人に共通する問題」が解決され、価値観の多様化がすすむ現代、論理に基づく戦略は限界を来しています。
そこで見直されているのが、「自分なりの視点」を軸にして「新たな価値」や「意味」を生み出すアプローチです。
これは、ビジネスに限らず、「人生100年」といわれる時代に人生を自分らしく歩み続けるためにも欠かせません。
「アートという植物」から見るアート思考
私はよく、アートを「植物」に例え、アート思考について解説しています。
アートという植物は、地表に「表現の花」を咲かせています。
これは、多くの人がアートと聞いてまず思い浮かべる「作品」にあたります。しかし、この植物の全体像を見てみると、「花」はほんの一部に過ぎないということに気がつくはずです。
地中を覗いてみると、そこには、アーティストの「興味・好奇心・疑問」が詰まった「興味のタネ」があり、そこから巨大な「探究の根」が広がっています。
アーティストにとって重要なのは、地表に咲く「花」ではなく、むしろ自分自身が地中で繰り広げる「タネ」から「根」の部分なのです。
「アート思考」とは、アーティストが目に見える作品を生み出す過程で行っている思考プロセスであり、「自分だけの視点」で物事を見て、「自分なりの答え」をつくりだすための作法です。
「頭」と「手」で思考する
では、一体どうすればアート思考を身につけることができるのでしょうか?
自分の興味・好奇心・疑問をもとに探究するとは、具体的にはどういったことなのでしょうか・・・?
『13歳からのアート思考』では、20世紀のアーティストによる6つのアート作品を鑑賞しながら、本質的な問いに向き合うことで、実際にアート思考を“体験”することができます。
しかし、実のところ中高生に向けた美術の授業には、その続きがあります。
彼らは、「頭」を使って思考をしたあと、「手」を使ってさらにアート思考を深めるというということをしていきます。
中高生が行ってきた探究の過程には、自分なりの答えを見つける “アート思考のヒント”が隠されているかもしれません。
ここでは2人の生徒が行った、地中の冒険を見ていきましょう。
目の前の“あたりまえ”に目を向けよう
「アートの常識に対して疑問を投げかける」ということを皮切りにアート思考の授業をしたことがあります。
「アートの常識に対して…」という、ある程度の制約の中で、生徒たちは自分自身の「興味のタネ」を見つけ出し、そこから各々が探究テーマを設定します。
ある生徒は、「アートは人がつくるものなのか?」という問いを起点に、探究をはじめました。
もともと写真を撮るのが好きな生徒だったのですが、授業のたびにカメラを片手に教室から抜け出して、学校内をうろつきました。
あるときは、「非常階段のサビ」の写真を撮ってきて「サビは、雨と太陽がつくったアートではないか?」。
またあるときは、「プールサイドのペンキがはがれている部分」に目を向けて、「これは雨風と時間がつくったアートではないか?」。
彼は、それまで誰も見向きもしなかったような学校内の些細なものごとを、「彼なりの視点」で見つめ直していました。
そしてある日の授業中、突然雨が降りはじめたときに、外に飛び出していって撮影したのが、この写真です。
これは、「降りはじめたばかりの雨が、コンクリートに描いた作品」であり、彼が出した「自分なりの答え」です。
自然がつくるものはアートといえるのか?
これをアートと呼べないのだとしたら、それはなぜなのか?
そもそもアートと、そうでないものの境界線とは何なのか・・・?
彼が生み出した「表現の花」は、見る人にそんな「新たな問い」を投げかけているのではないでしょうか。
疑問に“フタを”していないか?
もう一人の生徒の場合をみてみましょう。
日本伝統の技法である「金継ぎ」で修復された茶碗を知ったこの生徒は、ある疑問を持ちました。
「完全・不完全とはどういう状態のことをいうのだろう?」
ふとしたこの疑問から、彼女の探究がはじまりました。
とりあえず彼女は、「完全なもの」の代表として、フェルメールやゴッホなどによる「名画」をいくつか選び、プリントアウトして机の上に並べました。
翌週、彼女は周りの生徒を驚かせるような行動に出ます。
プリントアウトした名画を、ビリビリに破ったり、濡らしたり、シュレッダーにかけたりして「不完全」とされる状態にしてしまったのです。
彼女は、「自分なりの視点」で、「不完全な名画」を見つめていました。
そして、破れた絵を針と糸で縫い合わせてみたり、切った部分を編み込んでみたり・・・と、さまざまな方法で「手」を使った探究を進めています。
そんな彼女が出した「自分なりの答え」がこちらです。
これは「不完全」なものなのだろうか?
一体どの段階を「完全」というのだろうか?
もしかしてこれは、はじめの状態とは異なったもう一つの「完全」なのではないだろうか・・・?
彼女の「自分なりの答え」からは、いくつもの「新たな問い」が沸き起こってきます。
見栄えの良いアウトプットを目的にしない
いかがでしょうか?
もちろん、生徒全員が、この2人の生徒の場合ように都合よく「興味のタネ」と「探究の根」、そして、アウトプットとなる「表現の花」のすべてを揃えられるわけではありません。
なかには、疑問や興味を見つけ出すのに何時間も苦戦する生徒もいれば、提出日ギリギリまで探究していて、「花」となる作品の出来栄えはちょっと・・・というような生徒もいます。
しかし、私の授業では必ずしも「花」を咲かせること、つまり見栄えのいいアウトプットをつくり出すことは目的にしていません。
生徒たちにも「この授業の目的は、作品を完成させることではなくて、手と頭を使って“考える”ことだよ」と、はっきり伝えています。
そのため、生徒には「どんなことを考えていたのか」「どんな試みをしたのか」など毎回の授業での探究プロセスを、スケッチブックに絵や文章で記録してもらいます。
その過程が充実していれば、たとえ作品のクオリティーが低かったとしても、極端にいえば、作品ができなかったとしてもしっかりと評価しています。
自分なりの視点を持って、探究の根を伸ばし続ける。そんなアート思考の体験をすることが、作品を完成させること以上に、いちばん大切だと思っています。
すばらしい「表現の花」は、目指して咲かせられるようなものではありません。ですが、自分自身の「興味・好奇心・疑問」から目をそむけず、
アート思考は「すぐに効果が出る」ものではありませんが、