文=難波里奈 撮影=平石順一
純喫茶の聖地・神保町にある老舗
「純喫茶小道」と自分の中で勝手に名付けている場所が二箇所ある。一つは藤沢駅近くのペアソーダで有名な「ジュリアン」の通り。もう一つは、名だたる純喫茶が軒を連ねる神保町。三省堂書店の裏口から繋がるようにある小道。
今年10月で71周年を迎えた神保町の老舗「ラドリオ」は、姉妹店だというタンゴ喫茶の「ミロンガ」と斜めに向かい合って存在し、いつも賑わいをみせている。
2019年から店長を務めている篠崎麻衣子さんは、元々この近くでフルタイムの仕事をしていたが、喫茶店で働いてみたいという気持ちになり、たまたまラドリオの募集中の貼り紙を見つけた。以前から通っていたわけではなく、訪れたのはその時が初めてだったというから、何か運命的なものを感じてしまう。その時の決め手は「照明が控えめなところがよかった」こと。
アルバイト時代から店長に至った現在までの約10年間、定点観測のようにカウンター席の奥からこの空間を見つめ続けてきて知ったラドリオの良さは「やって来るお客さんにも働いている人にも若い人たちがいて、時代とともにきちんと巡っている感じがするところ」だと教えてくれた。
看板メニューのウィンナーコーヒーはこちらが発祥の店だと言われている。「お客さんたちがおしゃべりに夢中になってせっかく淹れた熱い珈琲が冷めてしまうのを防ぐために、たっぷりのクリームで蓋をした」ことが由来という説もあるが、この日伺ったエピソードは違うものだった。
篠崎さんが現オーナーに聞いた話によると、ウィーン帰りの常連さんとの雑談時に「あちらではコーヒーに何か白いものが乗っていた」という話題になって、それは何だろうと先代が探し求めていたとき。かつて小川町に存在していた洋菓子店のガラス越しにクリームの乗ったケーキが視界に入り、これのことではないかと思い付いて、「その白いもの」の作り方をその場で聞いて帰って珈琲に乗せたのが始まりだったという。戦後まもなくのことだったので、クリームはまだ貴重でとびきりハイカラな味がしたことだろう。
メディアにも頻繁に登場する有名店ゆえ、土日は行列ができることもしばしば。混雑していたとしてもその賑やかさこそ純喫茶の醍醐味でもあるし、いつ注文してもてっぺんがピンと立っている美しいクリームの姿に見惚れてしまってつい待ち時間のことなんて忘れてしまう。「忙しい時こそ綺麗に丁寧に。心がぶれていると乱れてしまうので。」と篠崎さんが心掛けているように、常に平静を保ちながら接客してくれるからこそあの居心地の良さが保たれているのだと改めて気が付く。
「適切な距離感は大切にしつつも、敷居の高い店にはしたくないです。誰でも来られる店であってほしい。」と篠崎さんはやさしい表情で話してくれた。どんなときでも気負わずに飄々とそこにいてくれるお店の人たちに今までどれだけ救われてきただろう。
赤い椅子にじっと腰掛けて、噛み締めた色々な感情を思い出すたびに胸が切なくなる。「日常過ぎない非日常な場所であってほしいですし、気持ちをリセットしてくれる場所だと思っています。」という篠崎さんの言葉はきっと今までもラドリオを守り続けてきた人たちと共通した想い。熱い珈琲の上に乗ったクリームのように、これからもラドリオは訪れる人たちの思い出を重ねてずっと続いていくのだろう。