文=難波里奈 撮影=平石順一

お腹も心も満たされるオフィス街の癒し

「珈琲も人生も、熱くなければつまんないでしょう!」

 勢いの良い言葉と溢れんばかりの笑顔で話して下さったのは、「ヘッケルン」の名物マスター森静雄さん。テレビや雑誌などのメディアにも引っ張りだこなのでそのお顔を見たことのある方も多いのではないだろうか。

 今や、一般的なものの2.5倍の大きさはあるジャンボプリンがすっかり人気メニューだが、注文ごとにサイフォンで淹れる珈琲にも並みならぬこだわりがある。日光陶器のカップに注がれた液体を口元に近付けてみるも、森さんの情熱を反映しているようでとても熱い。聞いてみると、出来立ての温度は94~95度、カップに注いでも80度くらいと高温。それを伝えると冒頭の言葉が返ってきた。

淹れたては熱々のブレンドコーヒー(400円)。キリマンジャロ、マンデリン、モカも人気。
開店当初からサイフォンで抽出。豆はキーコーヒー。森さん自身も味見を兼ねて1日3〜4杯飲むそう。

 訪れた多くの人たちがプリンセットを注文する。「プリンが甘いからこそ、その後の珈琲の一口が抜群に美味しいんだよ」と森さんがおっしゃるように、繰り返し口に運ぶことで美味しさのループが止まらない。味わってみると濃厚であるが後味はすっきり。苦味と酸味のバランスの良さが絶妙で香り豊か。ブレンドの配合はモカとブラジルが主で、創業当時から変わっていない。

名物のジャンボプリン(400円)は少し固め、昔懐かしい味わい。タマゴの味をじっくり味わってほしいからとクリームや果物はのせない。

 

「珈琲は俺のガソリン」

 森さんは酸味の強いものを好むが、個性がありすぎると人を選ぶから、と誰が飲んでも美味しい味に設定しているそう。「珈琲は俺のガソリンだからな」と豪快に笑う森さんを見ていると体の奥から元気がわいてくるような気さえする。

 虎ノ門のオフィス街にひっそりとありながら、つねに休む暇もないほど賑わっている。お客さんの多くが若い女性で、「全員俺の孫だ!」と豪語する森さんに会いたくて遠方からやって来る人たちも少なくない。おしゃべり上手でそのなめらかな口はずっと止まらないが、同時に、タマゴを割ったり、プリンを型から出したり、オレンジを絞ったりして忙しい手も動き続けているのがお見事。

若い女性の二人組からじっくり珈琲を味わう年配の男性まで、常に賑やかな店内。分け隔てなく接する森さんならではの光景。

 

タマゴサンドもお忘れなく

 プリン以外の私のおすすめはタマゴサンドである。注文してから切って和えるゆで卵が挟まれたふわふわのパンは、何度も食べているのにその度に思わず唸ってしまうほど美味しい。見慣れた料理であるのに一味違うのがプロであるゆえだ。

マヨネーズが程よいタマゴとパンの柔らかさが絶妙なタマゴサンド(430円)。あっという間にペロリ。

「ただ作って出すだけなら機械でもできる。『マスター』と呼ばれる意味を果たさなくちゃ意味がないよ。一度来た人たちの好みは全部覚えている。『アメリカン』って一口でいっても薄いだけではなくて、その人のちょうど良い薄さを覚えていて次来た時はそれをすっと出すようにしているよ」というコンピュータ顔負けの記憶力なのだ。

 この春、飲食店は今までにない大変な状況にあったと思うが、ヘッケルンはその間もずっと営業していた。周囲はオフィス街のため人がおらず、お客さんは1日30人という日も。店を開けている方が赤字になってしまうことは分かっていたが、ここを目指してやってきてくれる人がいるのなら、と思うと閉められず、結果的には営業していてよかったと思っているそう。

店内にある「寝ないで下さい」の文字。タバコは吸えるが3本まで。マナーにはうるさい愛のある厳しさ。

「儲けとかよりも、食べた人から『美味しかった』と言われる瞬間が嬉しいねえ。この触れ合いこそが人生」と言い切る森さん。賑やかなおしゃべりに魅せられて、気持ちもおなかも満足できる時間を過ごせる場所。あっという間に時計の針が進んでしまうのでスケジュールには余裕を持ってご来店を。