写真・文=山下英介

アッパー(甲部分)とソール(靴底)を手縫いによってつなぎ合わせる、ハンドソーン(手縫い)製法の靴。紳士靴つくりの原風景だ

奥深きハンガリーの靴世界へ

 冷戦時代を知る日本人にとって、どこかミステリアスなイメージがあるハンガリーや、チェコ、スロバキアといった中欧諸国。それはハプスブルグ家によってもたらされた繁栄の歴史と、秘密警察が跋扈した社会主義時代という、あまりに鮮烈な光と陰のコントラストによるもの、かもしれない。

 そんな未だ神秘のベールに包まれたこのエリアには、幸か不幸かは定かではないが、ファッショントレンドやグローバル化の激流とは無縁に育まれた、独自の紳士服文化がわずかながら根付いている。今回は、そのなかでも象徴的な存在である、ハンガリーの靴づくりを知る旅へ。

オーストリア=ハンガリー帝国時代に栄華を誇った、ブダベストの旧市街。社会主義時代の名残りか、そのクラシックな街並みとは裏腹に人々はあまりお洒落をしていない。残念ながら普通に街歩きをする中では、固有のファッション文化を感じる瞬間はほぼないだろう

 19世紀には〝ドナウの真珠〟〝東欧のパリ〟と呼ばれた都市としてはあまりにも小さく寂れた、ブタベストのリスト・フェレンツ国際空港。ターミナルを出た僕はオフィシャルのタクシーを拾い、そのまま郊外にある靴工房〝VASS〟(読み方はヴァーシュ、もしくはヴァシュ)へと向かった。その名は決して有名とは言えないが、日本でもいくつかのセレクトショップが扱っているから、靴好きならきっと聞き覚えがあるだろう。

 

名門靴工房との偶然の出会い

 もちろん僕もその存在については知っていたが、お店をちょっと覗いておこうかな、程度の気持ちで、実際に取材することになったのは偶然の出会いがきっかけだった。ブダペストを訪れる数日前に立ち寄ったフィレンツェで、たまたまVASSのエージェントを務める日本人と知り合い、その場で彼がアレンジしてくれたのだ。

 工房の玄関で僕を出迎えてくれたのは、Tシャツ&短パン姿の若者ピーター・ヴァーシュ君。天才靴職人と言われる創業者ラズロ・ヴァーシュさんのお孫さんで、学生ながらこちらでビジネスを学んでいる。取材日が土曜日だったため、残念ながらラズロさんと会うことはできなかった。工房には30 人ほどの職人が働いているが、英語を話せるのは彼だけだという。たどたどしい英語を話す者どうしの取材が始まった。

ビスポークの木型がずらりと並ぶ工房。訪問時に留守にしていた当主のラズロ・ヴァーシュさんは、『紳士靴のすべて』という著作(Amazonで日本語版の購入も可能)をもつ、靴業界を代表する名士である

VASSが復活させた中欧の靴文化

インソール(中底)のレザーをちょうどいい厚さに削ぎ落とす作業。この工房にはソールを磨くグラインダー以外、一切機械は置いていない

 もともとハンガリーやポーランドといった中欧、東欧圏には独自の靴づくりの文化が育まれていたが、第二次世界大戦後に共産圏に属したことによって、その存在は長年知られることはなく、衰退の一途をたどっていた。そんな状況を打破したのが、1978年にVASSを立ち上げたラズロさんである。彼は伝統的な技法を貫きつつも、上質な外国産のレザーを使うことによって、西側諸国の紳士靴愛好家たちをも唸らせる、新時代の高級ハンガリーシューズを生みだしたのだ。

 それではこのエリアにおける靴づくりとは一体どんなものなのか? その大きな特徴は、アッパー(甲部分)とソール(靴底)を縫い付ける作業(実際はもっと複雑なのだが割愛)をすべて手縫いで行う、いわゆるハンドソーン(手縫い)製法。これは19世紀後半、機械による底付け(グッドイヤーウェルト製法)が確立される以前に主流だったやり方で、履き心地や足なじみがとてもよい上、何度でもソールを張り替えられる、まさに一生モノの靴づくりである。

 そういえばVASSの工房にいると、ミシンをはじめとする機械音がまったく聞こえてこない。ミシン縫いを必要とするアッパーの縫製だけは外注しているというが、それ以外はすべてハンドメイドなのである。

アッパーとインソール、ウェルト(細革)を蝋引きした麻糸で縫い付ける、「すくい縫い」の工程。これにアウトソール(本底)を縫い付ける「出し縫い」を施すことによって靴は完成する。この工程を機械化したのが有名なグッドイヤーウェルト製法だ