郷愁を誘う「ブダペストラスト」
そしてもうひとつの特徴は、英国やイタリアの靴には見られない、独自のラスト(木型)。なかでも足の形に沿った内振り気味のフォルムと、ほぼ垂直に切り立ったつま先の形状を特徴とする、もっとも伝統的な「ブダペストラスト」は、僕のような甲高気味の足には非常に快適。オデコ靴のような無骨でレトロなシルエットは、カジュアルな着こなしに合いそうだ。
そんな極めて伝統的なつくり方にこだわりつつも、なぜか革だけは西欧の有名タンナー(革なめし工場)から仕入れ、現地のレザーを使うことはないというVASS。その理由はとてもシンプルで、ハンガリーで育つ牛は小さくて革に適さないから。豚革は品質が高いので、ライニングなどに使うこともある、とのことだった。
主に英国の老舗ビスポークシューメーカーが御用達にするトップランクのレザーを使い、長い時間をかけて丁寧にラストに吊り込んでいるからこそ、世界の粋人たちを唸らせるVASSのオーラは生まれてくるのだ。ちなみに後日、VASS以外の何軒かの靴店に立ち寄ってみたのだが、木型などには共通点もあるものの革質は総じて低く、国外での展開は難しそうだった。やはりこの工房は、ハンガリーにおいてはちょっと特別な存在なのだ。
心に沁みるブダペストのホスピタリティ
一所懸命に説明してくれるピーター君や、明るく清潔な工房で楽しそうに働く職人さんたちの表情を見ていたら、すっかり僕はここの靴がほしくなってしまった。ショップの場所を伺い工房を出ようとすると、ピーター君は僕に「今日は暑いから持って行きなよ」と、2L入りのミネラルウォーターを差し出してくれた。
工房からブダペストの中心街にあるVASSの店にタクシーで向かうと、驚いたことに店内に並ぶ靴は革やデザインを問わず、すべて均一価格だった。確か2019年当時、木製の専用シューキーパー込みで500ユーロ程度。日本での価格を考えると、半額以下といったところか。しかもサイズがないものに関してはアップチャージなしで注文可能、日本に送ってくれるとのこと。そこで僕は店頭になかったブダペストラストのプレーントウ(つま先に飾りのないプレーンなデザイン)を、茶色のイタリア製カーフ(子牛革)で注文することにした。細身のパンツとの相性はきっと抜群だろう。
支払い後お店を出ようとする僕に、親切なマダムは「暑いから持っていけ」と、再び2リットル入りのミネラルウォーターを手渡してくれた……。リュックに詰め込んだ計4リットルのペットボトルは肩がちぎれるほどの重さだったが、中欧の素朴な優しさが心に沁みたのだった。