写真・文=山下英介
往年の服マニアを唸らせた〝アットリーニ 〟
今ではあまり姿をみかけなくなってしまったが、すこし前までクラシックファッション業界には「変態」と呼ばれる諸先輩方がいて、僕もちょくちょく彼らが開催する、飲み会という名の服オタ会議に参加していた。
議題は「世界で一番美しいボタンホール」だったりして、「あそこのボタンホールはプリプリでエロいよね」「いやいや、ここのだって一見雑に見えるけど味があって捨てがたいですよ〜」なんて話が一晩中続くものだから、僕は1時間程度で眠くなってしまうのだが……(話題が業界ゴシップネタに移ったときだけ覚醒)。
そんなとことん不毛で今にして思えば楽しい会議は、いつもこの言葉で幕を引いたものだ。「やっぱ〝アットリーニ〟は別格だよね」。〝アットリーニ〟とは、古くから紳士服の仕立て文化が根付くイタリア・ナポリのなかでも、随一の腕と噂されるファクトリーブランド、〝チェーザレ・アットリーニ〟のことである。先輩方曰く「下手なビスポークなら断然〝アットリーニ〟」であり、「〝アットリーニ〟のジャケットはサイズが合ってなくてもかっこよく見える」のだという。ホントかな?
驚きの「ハマる」感覚
当時の僕は、既製服なのに50万円近くもする〝アットリーニ〟より、もっと安い価格でつくれるビスポークテーラーに夢中で、正直いってそれほどピンときていなかったのだが、たまたま撮影用に借りてきたサンプルにそでを通した瞬間、納得してしまった。当時の僕に対して2サイズオーバーの「52」を着たっていうのに、「お直しすればいけるかな?」と思わせてくれるのだ。
思い切ってジャストサイズを買ってみてさらに納得。僕が今までビスポークしたアレやソレよりバチッとフィットして、見栄えも着心地も断然いい。なんというか、上半身にカポッとハマる感覚なのだ。
たったひとりのために型紙を引いたビスポークより、万人の体型に合わせるように設計された既製ジャケットのほうが優れているという現象が、なぜ生まれるのか? その秘密を探るために、僕はサルトリア(仕立て屋)の聖地と名高いイタリア・ナポリにある、チェーザレ・アットリーニのファクトリーへと向かった。
「ナポリ仕立て」は〝アットリーニ 〟から生まれた
〝チェーザレ・アットリーニ〟のルーツは、1930年代に遡る。温暖なナポリの風土にマッチする、軽快でソフトな〝ナポリ仕立て〟という概念を産み出したサルト(仕立て職人)、ヴィンツェンツォ・アットリーニ氏。洒落者ウィンザー公らも顧客にしたこの名工の息子こそが、創業者であるチェーザレ・アットリーニ氏であり、彼は昔ながらの仕立て屋の技術を工業ラインに落とし込むことによって、ナポリ仕立てのジャケットを大量生産(といっても日産数十着だが)することに成功した。そしてアメリカや日本市場に向けて海外進出を果たし、1990年代に勃発したクラシコ・イタリアブームの立役者となったのだ。
モダンな工場と、昔ながらの手仕事のコントラスト
〝アットリーニ〟が本拠地を構えているのは、カサルヌオボというエリア。〝キートン〟や〝イザイア〟といった競業ブランドも工場を構えるこの場所は、かつてお洒落なナポリ紳士たちが闊歩した由緒ある場所だと聞いていたが、実際にクルマを走らせてみると世界のどこにでもある典型的な郊外都市といった雰囲気で、そんな風情は微塵も感じられない。実際にたどり着いた本社兼工場も、飾り気のないモダン町工場といった雰囲気で、すこし情緒に欠けるのだ。
しかし工場内に一歩足を踏み入れたら、そんな印象は一変。建て替えたばかりの社屋こそ現代的だが、そこで行われている仕事は、まさしく古典的なサルトリアそのもの。まずなんといっても、機械音がほとんどしない。ミシンの音は多少するが、それにしても非常にのんびりしたものだ。
幻想を掻き立てる職人の手仕事
今やコンピューター制御(CAD/CAMシステム)が主流となった裁断だって、こちらは生地からハサミでジョキジョキ切り出す手裁断。ラペルのふんわりしたロール感を演出するために芯地に施す「ハ」型のステッチ=「ハ刺し」も、時間をかけてチクチク手で縫っている。某超高級ファクトリーブランドだって、「ハ刺し」はミシン縫いだというのに!
製品を見ればほとんど手縫いでつくられていることは一目瞭然だが、それにしてもここのファクトリーは手間のかけかたが違う。しかも「この道ウン十年」といった顔をしたベテラン率がとても高く、彼らの仕事ぶりがいちいちこちらの幻想を掻き立てるのだ!
秘伝の技? 職人が生地を〝弾く〟
僕がもっともグッときたのは、職人さんがジャケットの身頃をプレス(アイロン )するときに、まるでピアノを弾くかのように、生地を指先でトトトトトン……と優しく叩くこと。生地のテンションを微妙に調節しているのだと思うが、とにかくここのプレス工程はとても多く、しかも丁寧。
単なる流れ作業ではなく、それぞれが熟練した職人にしかできない高度な作業であり、これによって一枚の平べったい布が、驚くほど立体的に生まれ変わる。そしてこの「立体感」こそが、〝アットリーニ〟のジャケットが「オーバーサイズでもアリに見える」理由であり、「身体にカポッとハマる」理由なのだろう。
ただひたすら、丁寧に
工場を案内してくれた創業者の三男、ジュゼッペ・アットリーニさんにも色々と質問したのだが、やはり拙い英語のうえ縫製や工場設計に詳しくない僕の質問は少々情緒的すぎて、いわゆる「秘伝」を聞き出すことは難しかった。普通なら機械化している部分も極力手仕事にこだわっている、といった感じだろうか。
しかしもしかしたら、「秘伝」なんて存在しないのかもしれない。分業化していることと既製品をつくっていることが違うだけで、ここで行われている仕事は熟練のサルトリアとなんら変わりはない。とにかく各分野における超一流の職人を集めて、ひたすら丁寧に昔ながらの仕事を貫いているファクトリーが、〝アットリーニ〟なのだろう。
先輩方、お元気ですか? やはり「アットリーニは別格」でした。