すばらしい響きを披露したアンジェリーテの歌い手たち。<撮影:石田昌隆>

 今回から音楽遠足という音楽に関するコラムを連載することになりました。タイトルどおり、音楽が鳴るところに気ままに出かけていってはその感想を記す雑ぱくな連載です。最初はブルガリアへの遠足です。

 日本ではブルガリアというとヨーグルトのイメージが強いが、音楽好きにとっては通称“ブルガリアン・ヴォイス”と呼ばれる女性合唱の歌、合唱団の国かもしれない。

 独特のリズムやハーモニー、ときに不協和音が混じるその伝統的な合唱は、民族音楽の一つとして日本でも古くから研究者や好事家には知られていたが、一般的な知名度を獲得したのは、1980年代半ばにイギリスのニューウェイヴのレコード・レーベルである4ADが『神秘の声(Le Mystère des Voix Bulgares)』というアルバムをリリースし、それが日本でも反響を呼んだときだろう。

 CMなどにも使用されたほか、当時、日本で最もお洒落なレコード店の一つだった六本木WAVEで大々的に紹介されたこともあり、古来からの民族音楽、あるいは民謡であるブリガリアン・ヴォイスは、最先端のお洒落な環境音楽的に日本で愛好されることになった。

 それから30年以上が経ち、さすがにお洒落アイテムではなく、豊かで独特の音楽性、伝統の歌声を素直に楽しむ人も増えているが、ぼくは実は80年代のお洒落イメージのままで感覚が止まっていて、生で聴くのももちろん初めて。

 今回、初めて生の声に接することになった、日本のファンに支持されている合唱団は1952年に結成された“ブルガリアン・ヴォイス アンジェリーテ”(以下アンジェリーテ)だ。1990年代にはアルバムがグラミー賞にノミネートされたこともあるとのこと。

 1995年に初来日してからは阪神・淡路大震災の復興チャリティ・イベントに参加したり、和楽器演奏グループと共演したりと縁も深くなり、日本でも着実にファンを増やしてきた。

 そんなアンジェリーテの新アルバム『ヘリテージ 〜未来への遺産』のリリースと、日本とブルガリアの各種外交関係の複数の周年を記念して日本ツアーを行ったので、さっそく音楽遠足に出かけた。

 会場は錦糸町にあるすみだトリフォニーホール。

 ロビーに入るとブルガリアの各地方の民族衣裳が飾られている。トラキア地方、マケドニア地方…、そう、ブリガリアの一部地域はかのアレキサンダー大王(B.C.356-323)が統治したマケドニア王国の一地域でもあった。

ロビーに並んだブルガリア各地の民族衣裳。中東、南アジアの影響を感じる。

 アレキサンダー大王はその生涯で東ヨーロッパに位置するマケドニアから、エジプト、イランを経てインドまで東征した王だ。

 というようなことを思いながら、この日バー・カウンターで販売されたブルガリア・ワインを飲み、開演を待つ。
 
 ほぼ定刻、およそ20人の、民族衣裳をまとった女声合唱団が舞台に現れ、「カヴァルの音色 KAFAL SVIRI - Petar Lyondev」からコンサートはスタートする。初めて生で聴くブリガリアン・ヴォイスは、レコードやCDとは違う迫力がある。かつて六本木WAVEで買ったCDを家で聴くときは、どことなく、いや、抜き難いお洒落感があったが、同じ音楽、曲でもそういうBGMや環境音楽的な楽しみとはべつの快楽がある。

色とりどりの民族衣裳に身を包んだ合唱団。指揮はカティヤ・パルロヴァ。<撮影:石田昌隆>

 美しいと同時に、慣れない人が聴いたら奇声にも思える掛け声や、ホーミーなどと同様の倍音の響き、協和、不協和を超越した和声。これが人間の肉声なのかといぶかるようなサウンドの瞬間もある。

 合唱団の背後のスクリーンでは、演奏曲の歌詞の大意が日本語字幕で紹介される。

 圧政に抵抗する英雄の歌もあれば、キリスト教の聖人を讃える歌もある。

 しかし、それら以上に、畑仕事の歌や、子供ができないため姑にいじめられる嫁の悲しみを歌ったもの、娘たちだけのパーティーに若作りの独身老人があらわれて困ったというコミカルなもの、情けない息子を叱咤激励する母の歌など、まさに万国共通、どこの国のどの地方で歌いつがれていてもおかしくない歌も。

 そう、ブルガリアン・ヴォイスとは民謡でもあるのだ。

 日本公演のための特別な演目「ソーラン節」がこぶしを効かせて歌われてもまったく違和感がなかったのも、つまりは各国の民謡が内包する人間の、庶民の感情が万国共通のものであるということだろう。

 もう一つ、この公演で特筆すべきだったのは、日本を代表する笙奏者である東野珠美が中村華子、五月女愛と組んでいる笙演奏のアンサンブル“星筐”との共演が3曲あったこと。平安装束に身を包んだ東野らの笙と、ブルガリア各地の民族衣裳をまとったアンジェリーテの歌声は不思議な調和と美しさで聴衆を圧倒した。

笙との共演。平安装束とまったく違和感がない。<撮影:石田昌隆>

 笙という管楽器は、もともとは先史時代に東南アジア各地で使われるようになり、中国で完成をみて奈良時代に日本に入ってきたそうだ。

 最初に書いたよう、アレキサンダー大王は多くのマケドニアの兵士とともにインドまでやってきた。ヨーロッパからインドまでの長い旅の間に、マケドニア人たちは各地でどんな音楽に触れ、どんな楽器の音を聴き、その記憶を祖国に持ち帰ったのだろう。

 南アジアや中東の影響が強く感じられるアンジェリーテの衣装や、同じく非ヨーロッパ的な響きの歌声と笙。意外な組み合わせのようで、実は大昔にどこかで出会っているんじゃないだろうか。

 遠足どころか、なんだか雄大な旅の妄想になってしまったけれど、音楽を聴きながら頭の中で世界地図を拡げてみるのは楽しい。

 いい経験ができました。

 東野珠美らの星筐は11月には現代音楽やオリジナルの演奏と立体音響とAIのインスタレーションを融合したパフォーマンスを行うとのこと。こちらも面白そうだ。